■ 第2話:偽りの満腹感と、軍事用「欲求抑制剤」
窓一つない地下の第4会議室は、御子柴が吐き出す紫煙と、日常の甘いお菓子が国家インフラを破壊する兵器だという絶望的な仮説によって、じっとりと重苦しい空気に沈んでいた。
無機質な空調のモーター音が、ジジッ……ジジッ……と、何かのカウントダウンのように冷酷なリズムを刻み続けている。
たった一粒のグミが、日本の農業や物流を干上がらせるための「兵糧攻め」の道具だという事実。
七海悠太は、机の上に放り出した万能グミのカラフルなパッケージを、まるで起爆装置でも見るかのように怯えた目で見つめ、パイプ椅子の上で身を縮めていた。
「……落ち着いてください。御子柴さんの妄想は、経済の基本原則を無視したただの飛躍です」
氷室司が、長机の上に置かれた冷え切ったブラックコーヒーの紙コップを手に取り、静かに一口啜った。
彼は懐からマイクロファイバーの布を取り出し、タブレットの画面を執拗に拭き上げると、銀縁眼鏡の奥で冷徹な光を放った。
「そもそも、この万能グミが若者に受け入れられている最大の理由は、栄養素だけではありません。たった一粒で長時間の【満腹感】を得られるという、圧倒的な機能性にあります。これは製薬会社が極秘の薬物を入れたからではなく、極めて真っ当な『食品科学』の成果に過ぎません」
氷室の細い指先がタブレットを滑り、巨大モニターに複雑な分子構造のグラフィックと、人体の消化器官の図解が投射された。
「グミの成分表にある『難消化性デキストリン』と、特殊加工された『超吸水性ポリマー』の複合体。これが胃の中で水分を吸収し、数十倍に膨張することで、物理的に胃壁を圧迫するのです。同時に、低GIの糖質が血中にゆっくりと溶け出すことで、血糖値を一定に保ち、脳の満腹中枢を騙し続ける。……これは、ただの【高度な血糖値コントロール技術】です」
氷室は、勝ち誇ったようにレーザーポインターで胃袋の図を指し示した。
「物理的な膨張と、緩やかな糖の供給。この二つの科学的アプローチによって満腹感を作っているだけです。そこに中枢神経をいじるような違法な薬物など入っていませんし、入れる必要もない。オカルトや軍事陰謀論が入り込む余地など、一ミリも存在しないんですよ」
データと食品化学に基づく、氷室の鋭いカウンター。
物理的にお腹が膨れているから、お腹が空かない。ただそれだけのシンプルな真実。
しかし、その言葉を聞いた轟大吾の顔色は、決して明るくならなかった。
轟は、分厚い両腕を組み、黒のタクティカルジャケットの背中をギュッと軋ませながら、低く、地を這うような声で唸った。
「……氷室。お前は『平和な実験室のデータ』しか見ていない。現場の兵士の胃袋を知らないから、そんな暢気なことが言えるんだ」
「現場の兵士……? グミの話と何の関係があるんですか、轟さん」
氷室が怪訝な表情を浮かべる。
「関係大ありだ。氷室、お前はたった五グラムのグミが胃の中で数十倍に膨らむと言ったな。……ならば聞くが、胃の中でそれほどの質量が膨張し続けているなら、なぜそれを食べた人間は【胃の重さや膨満感】を一切感じないんだ?」
「え……?」
氷室の言葉が、一瞬だけ詰まる。
「普通のこんにゃくゼリーや食物繊維を大量に食べれば、腹が張って苦しくなるはずだ。だが、七海! お前はこれを使っていて、胃が重いと感じたことはあるか!?」
轟の鋭い眼光が七海を射抜く。
「い、いや……言われてみれば、お腹がパンパンになるとか、そういう苦しさは全然ないです。ただ……【食べたいっていう気持ち自体が、スッと消えちゃう】みたいな……」
「その通りだ!!」
轟が、分厚い両手で長机をバンッ!と激しく叩きつけた。
ダンッ!!という音が、地下室の空気を震わせる。
「これが物理的な膨張じゃない証拠だ! 氷室、軍隊において最大の弱点であり、最もコストがかかる『補給物資』は何だと思う? 弾薬か? 燃料か? 違う! 前線の兵士たちに毎日配らなければならない【食料】だよ!!」
轟は自らの暗号化端末を操作し、巨大モニターにアメリカの国防高等研究計画局(DARPA)と、それに紐づく軍事医療の極秘ファイルを割り込ませた。
「食料の輸送線が絶たれれば、軍隊は三日で機能停止する。だからこそ、軍事大国の研究機関は古くから、兵士の『食欲』そのものを長期間にわたって物理的に消去する【軍事用・欲求抑制剤】の開発を極秘裏に進めてきた」
「欲求……抑制剤……!?」
氷室の持つタブレットが、カタカタと震え始めた。
「ああ! 胃袋を膨らませるんじゃない! 脳の視床下部にある摂食中枢に直接作用し、『空腹であるという信号』を強制的にブロックする、極めて強力な【中枢神経ハッキング薬】だ!!」
轟はモニターの極秘ファイルを太い指で指し示した。
「戦場の極限状態において、兵士に食事の時間を忘れさせ、空腹の苦痛を感じさせずに何日間も戦わせ続けるためのケミカル兵器。……帝国メガファーマが製菓メーカーに横流ししたのは、その危険すぎる軍事用ドラッグの【マイルドな劣化版】に他ならないんだよ!!」
「……っ!! ただの満腹感じゃない……脳のハッキング……!」
氷室の顔面から、スッと血の気が引いていく。
「ええ、人間の根源的な『欲』を断ち切る劇薬ね」
密室の淀んだ空気を撫でるように、烏丸玲奈の艶やかな声が響いた。
彼女はゆっくりと立ち上がり、黒いヒールを鳴らしてモニターの前に歩み出る。
そして、長い黒髪を透き通るような指先で弄りながら、モニターに映る脳の図解をうっとりと見つめた。
「氷室さん。古来より、悟りを開こうとする修行僧たちが、なぜ厳しい『断食』を行ったか分かるかしら?」
「断食……それは、肉体的な苦痛によって精神を鍛えるためでしょう」
氷室が震える声で答える。
「半分正解で、半分間違いよ。人間の『三大欲求』――食欲、睡眠欲、性欲は、すべて脳の深い部分で密接に繋がっているわ。……だから、最も根源的で強い『食欲』を完全に断ち切ることで、人間は他のすべての世俗的な欲求……つまり『現世への執着』をも失っていくの」
烏丸は、透き通るような白い指先で、自分の唇をそっと押さえた。
「食への執着を失った人間は、怒りも、悲しみも、何かを変えようとする情熱も持たなくなる。……ただ静かに、植物のように生きるだけの【肉体の抜け殻】になっていく。グミがもたらす偽りの満腹感は、現代の若者たちに強制的な断食を強いる、恐ろしい『精神の去勢手術』なのよ」
「ククク……ハハハハハ!!!」
突如、密室に地鳴りのような笑い声が響き渡った。
御子柴健だ。
彼はスーツの内ポケットからジッポライターを取り出し、カチン、と火をつける。
深く吸い込んだ紫煙を天井に吐き出しながら、彼はギラギラと血走った目でホワイトボードの前に立ちはだかった。
「見事だ、轟! 烏丸! これで帝国メガファーマの連中が、何のためにこの危険な軍事ドラッグを『お菓子』に偽装してばら撒いたのか、その【本当の恐ろしさ】が完全に暴かれたぜ!!」
御子柴は黒のマーカーを掴み、ホワイトボードに大きく『食欲の去勢』と書き殴り、そこから矢印を引いて『=【思考の停止】』と赤のマーカーで叩きつけた。
ダンッ!!という激しい音が、地下室の壁を震わせる。
「氷室! お前はさっき、食糧問題を解決すると言ったな! 違う!! 奴らが解決しようとしているのは食糧危機じゃない! 国家を支配する上で最も邪魔になる、【国民の反抗心】そのものを消去しようとしているんだよ!!!」
「反抗心を、消去する……!?」
氷室がタブレットを握りしめ、身を乗り出す。
「そうだ!!」
御子柴が、黒のマーカーでホワイトボードをドスンドスンと激しく叩きつける。
「食欲を奪われ、欲求をハッキングされた人間はどうなる!? 烏丸の言う通りだ! 何かを食べたいと思わなければ、より良い生活をしたいとも思わない! 不当な税金を取られても怒らない! 理不尽な政治にも牙を剥かなくなるんだよ!!」
御子柴の血走った眼光が、密室の全員を射抜く。
「一粒のグミを口に入れるだけで、すべての欲求が満たされたと錯覚する【幸福なゾンビ】の出来上がりだ!! 奴らは、国民から食糧というインフラを奪い取るだけじゃねえ!! この国の一億人の人間を、文句一つ言わずに働き続ける、完璧に従順な【意志なき家畜】に作り変えようとしているんだよ!!!」
「ああっ……! ああああああっ……!!」
七海悠太が、両手で自分の頭を強く抱え込み、床の上でのたうち回った。
「俺……! 確かに最近、このグミを食べるようになってから、ゲームの新作が出ても欲しいと思わなくなったし……バイト先で理不尽なこと言われても、『まあいいか』って、怒る気力すら湧かなくなってた……!!」
七海の脳裏に、自分が少しずつ、何かを欲しがる「人間としての熱」を失い、ただの冷たい機械の部品のように変わっていく悍ましいヴィジョンがフラッシュバックする。
ただ便利だと思って口にしていた甘い一粒が、自分の心と魂を削り取っていたのだ。
「俺の心は……! お腹が膨れてたんじゃない、脳みそに麻酔を打たれて、ただの【都合のいい奴隷】に改造されてたって言うのかよおおおっ!!」
食欲という名の、人間性の最後の砦。
それを奪うことは、自発的な意志を永遠に封じる、恐るべき精神的ロボトミー手術だった。
「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」
七海悠太の魂を引き裂くような絶叫が、窓のない地下室の壁に叩きつけられた。
長机の上で銀色に光る、ポップで色鮮やかな万能グミのパッケージ。
無機質な空調のモーター音が、まるで一億人の国民から思考と欲望を静かに吸い取っていく巨大な換気扇のように、低く、重苦しく、彼らの頭上で鳴り響いていた。




