■ 第10話:泥臭き「食卓」を取り戻せ! 胃袋の反逆
窓一つない地下の第4会議室は、人類が巨大企業の飼いならされた「感情を持たない働き蜂」へと作り変えられていくという、絶望的な未来予想図によって、完全な静寂に支配されていた。
壁に掛けられたデジタル時計の赤い秒針だけが、2029年の無機質な時間を刻み続けている。
無機質な空調のモーター音が、ジジッ……ジジッ……と、個人の意志が完全に消滅したディストピアの足音のように鳴り響いていた。
七海悠太は、パイプ椅子から崩れ落ちたまま、両手で自分の頭を抱え込んでいた。
「……終わった。俺たちはもう、人間じゃない。偉い奴らが作った『システム』の中で、ただ死ぬまでヘラヘラ笑いながらグミを噛み続けるだけの、哀れな虫ケラなんだ……。もう、この国には逃げ場なんてどこにもない……!」
「……ああ。物理的な火力や装甲がどれほどあろうと、自らの『欲求』を内部から去勢されてしまえば、戦う理由すら見失う。……軍事力など、洗脳された平和の前ではただの無用の長物だ」
歴戦の猛者である轟大吾でさえ、分厚い両手で顔を覆い、タクティカルジャケットの背中を丸めて深い絶望の溜息を吐き出した。
「ええ。美しくて、残酷な終焉ね」
紫煙のベールを透かして、烏丸玲奈のひんやりとした声が響いた。
彼女はペットボトルの水をグラスに注ぎ、透き通るような指先でその縁をなぞりながら、虚空を見つめる。
「誰も血を流さず、誰も怒らず、ただ静かに人間の魂だけが消去されていく。……一部のエリートたちが君臨し、残りの人類は文句一つ言わない働き蜂として工場を満たす。……ディストピアの完成形としては、これ以上ないほど完璧なシナリオだわ」
「…………完璧なシナリオ、ですか」
その時、極限の絶望を切り裂くように、氷室司の冷徹な声が響いた。
氷室は、長机の上に置かれた自分のタブレットを手に取ると、懐から取り出したマイクロファイバーの布で、画面についた指紋を執拗なまでに拭き上げ始めた。
「烏丸さん。そして轟さん、御子柴さん。……絶望するのは、三流のデータアナリストのやることです。私はデータ至上主義者だ。データが【破滅】を示しているなら、同時に【反撃のバグ】もデータの中にあるはずです」
「反撃のバグ……? 何を言っているんだ、氷室」
轟が、顔を覆っていた手をどけて怪訝な顔を向ける。
氷室は、磨き上げたタブレットを長机に置き、銀縁眼鏡を中指でクイと押し上げた。
その曇りのない瞳には、冷酷なまでの論理の光が宿っていた。
「巨大企業が企む【企業国家】の計画には、人体生理学的に見て、極めて脆いアキレス腱が存在します。彼らは薬物で脳の多幸感を操り、消化器官を退化させた。……ですが、人間の肉体は、そこまで簡単に『後戻りできない構造』にはなっていない」
「後戻りできるだと!?」
御子柴健が、パイプ椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。
「ええ」
氷室は立ち上がり、巨大モニターに映る『萎縮した胃腸』と『脳の神経伝達経路』の図解をレーザーポインターで指し示した。
「人間には『脳腸相関』というシステムがあります。胃腸と脳は、迷走神経を通じて密接にリンクしている。……万能グミの薬物が脳を直接ハッキングして怒りを消去しているなら、私たちは【胃腸からの物理的なアプローチ】で、そのハッキングを強制的に解除すればいいんです!」
「胃腸からのアプローチ……? それがどうしたって言うんだ」
轟が眉をひそめる。
「轟さん、人間の胃袋は筋肉です。筋肉は使わなければ衰えますが、逆に言えば【負荷をかければ再び強化される】。……彼らが用意した甘い泥水ではなく、消化に莫大なエネルギーを要する『固く、筋張った本物の食物』を胃に叩き込むんです!」
氷室が、長机を両手でバンッ!と叩きつけた。
「咀嚼という物理的な顎の運動。そして、胃腸が本物の肉や繊維を溶かそうとする激しい蠕動運動! その圧倒的な生体パルスが迷走神経を駆け上がり、脳内の薬物的な多幸感を【物理的な痛みと熱】で吹き飛ばす!! これこそが、企業国家の洗脳を破壊する、人体に備わった最強のアンチウイルス機能です!!」
「……っ!! 薬の洗脳を、内臓の力でねじ伏せる……!!」
轟の巨体が、落雷に打たれたように激しく震えた。
「軍のプロトコルで言えば……! 敵の電子戦に対して、最も原始的な【物理的衝撃(アナログ攻撃)】でシステムを再起動させる荒療治だ! 便利さと快適さで俺たちを骨抜きにしようとするなら、俺たちは自ら『苦痛』と『不便』を胃袋に叩き込んで、野生の闘争本能を呼び覚ませばいい!!」
「その通りです!!」
氷室が、冷徹な笑みを深める。
「特権階級どもは、人間を効率的な機械だと舐め切った! だが、機械は『不味い飯』を食って胃もたれを起こし、それでも生きようと腹を鳴らすことはできない!!」
「……っ!! 胃袋の痛みこそが、人間であることの証明……!」
烏丸が、自らの両腕を抱きしめるようにして、恍惚と囁く。
「神話の真実が見えてきたわね。……人間が火を使い、他の生命の肉を焼き、血肉を啜る。それはただの栄養補給じゃない。他の生命の【生への執着】を自らの体内に取り込み、野生の怒りを受け継ぐための神聖な儀式よ。……工場で作られた無機質な化学物質では、決してその『魂の炎』を灯すことはできない」
「ククク……ハハハハハ!!!」
突如、御子柴健が天を仰ぎ、狂気と歓喜が入り混じった高笑いを爆発させた。
彼はスーツの内ポケットからジッポライターを取り出し、カチン、と火をつける。
深く吸い込んだ紫煙を天井に吐き出しながら、彼はギラギラと血走った目で、ホワイトボードの前に立ちはだかった。
「見事だ、氷室! 轟! 烏丸! これで俺たち人類が、巨大企業どもを出し抜いて【ディストピアを破壊する】ための、究極のカウンター・プロトコルが完成したぜ!!」
御子柴は黒のマーカーで、ホワイトボードに描かれた『働き蜂』の絵に激しくバツ印をつけ、その横に巨大な『牙』と『燃え盛る胃袋』の絵を真っ赤なマーカーで描き殴った。
ダンッ!!という音が、地下室の壁を震わせる。
「氷室! お前はさっき、咀嚼と消化が洗脳を破壊すると言ったな! そしてそのトリガーは、効率を捨てて『本物の飯』を食うという【泥臭い決断】だ!!」
「ええ、極めて非合理な、人間だけの特権です」
氷室が即答する。
「ならば!!」
御子柴が、悪魔のような笑みを浮かべて咆哮する。
「俺たちが、あの五百円の万能グミをすべてゴミ箱に叩き捨てて! 時間と金と手間を死ぬほどかけて、面倒くさい【不味い飯】を食い荒らせばいいんだよ!!!」
「面倒くさい、飯……!?」
七海が、間の抜けた声を上げる。
「そうだ!! 巨大企業の計画は、国民全員が『タイパ』や『コスパ』といった【効率化の呪い】に自ら縛られることを前提に作られている!! だが、もし俺たちが!!」
御子柴の血走った眼光が、密室の全員を射抜く。
「効率なんてクソ食らえと! わざわざ時間をかけて火を起こし、野菜を刻み、硬い肉を何十回も噛みちぎりながら、仲間と食卓を囲んでバカ笑いしたらどうなる!?」
「……っ!! 効率の完全なる放棄が、奴らのビジネスモデルを崩壊させる……!」
轟が、顔面を蒼白にしながら歓喜の声を上げた。
「ゲリラ戦の基本だ!! 敵の補給線を絶つんじゃない、俺たち自身が敵の供給する『便利さ』を完全に拒絶する!! 一億人がグミを捨てて、再び米や肉を求め始めれば、干上がりかけていた日本の農業や物流網が【死の淵から一斉に蘇る】!! 奴らが買い叩こうとしていたインフラは、再び俺たち国民の手の中に立ち戻るんだ!!」
「そうだ!!」
御子柴が、ホワイトボードをドスンドスンと激しく叩きつける。
「俺たちの【非効率な胃袋】こそが! 巨大企業による無血クーデターを粉砕する、最強の【物理的レジスタンス兵器】になるんだよ!!!」
御子柴は、赤のマーカーで『食卓』の文字の横に『= 国家の奪還』と大きく書き殴った。
「いいかお前ら!! 企業どもがタワーマンションの最上階で、俺たちが大人しく家畜になるのを待っている間! 俺たちは地上に降りて、泥と油にまみれた食卓を囲む!! コスパを捨てろ! タイパを捨てろ! 自分の顎が痛くなるまで硬い肉を噛みちぎり、胃袋が痙攣するまで消化器官をフル回転させて、人間に戻ってやれ!!」
御子柴の咆哮が、地下室の空気を極限まで熱狂させる。
「そうすれば俺たちは、薬物の洗脳を自力で吐き出し、奪われた感情と怒りを取り戻せる!! 奴らが企業国家の完成を宣言しようとした時、この国の大地を埋め尽くしているのは……グミをしゃぶる働き蜂じゃない!! 泥臭い飯を食って牙を研いだ、反逆の野獣たちだ!!!」
「俺たちが……自分の胃袋で、国を取り戻す……!!」
氷室司が、銀縁眼鏡の奥で、かつてないほど獰猛な笑みを浮かべた。
データに支配されるのではない。データという檻を、肉体で食い破るのだ。
「フッ……非科学の極みのような結論ですが、情報工学のロジックをアナログで破壊するアプローチとしては完璧に美しい。……やりましょう、御子柴さん。企業の完璧なシステムに、人間の『食欲』という最悪のバグを仕込んでやる」
「ああ、受けて立とうじゃねえか。血を流さない戦争なんて反吐が出る。俺の胃酸の処理能力、限界まで引き出してやるぜ!」
轟大吾が、分厚い両拳をバキバキと鳴らし、戦意を爆発させる。
「ええ、飼いならされた平和なんていらない。自分の命を削ってでも、熱い命を喰らい続けるのよ」
烏丸玲奈が、恍惚とした笑みを浮かべ、まるで血を求めるように自らの赤い唇を舐めた。
「よし!」
御子柴が、ジッポライターを力強く閉じ、新しい煙草を咥えた。
「各自、今すぐ手元の万能グミを捨てろ!! そして今夜は、この街で一番脂っこくて、一番胃にもたれて、一番食うのに時間がかかる【バカみたいに巨大なステーキ】か、ニンニクまみれの【極悪なラーメン】を食いに行くぞ!!!」
「うおおおおおっ!!」
七海悠太が、長机の上に転がっていた万能グミのパッケージを鷲掴みにし、自らの手でグシャグシャに握り潰した。
「やってやるよ!! 腹が痛くなろうが、吐きそうになろうが知るか!! 俺は虫ケラじゃねえ、親父の作った不格好な野菜を食って笑う、人間の【七海悠太】だ!!」
七海は、握り潰した銀色のパッケージをゴミ箱へと勢いよく叩き込んだ。
それは、便利さと引き換えに差し出そうとしていた自らの魂を、強引に取り戻した瞬間だった。
「俺の胃袋の【噛み砕く力】を見せてやる!! 今日から俺は、一日三時間かけて、メチャクチャ面倒くさい自炊をしてやるからなあああっ!!!」
巨大企業の陰謀と、それに抗う考察者たちの、泥臭き終わらない戦い。
無機質な空調のモーター音が、彼らの胃袋が上げる反逆の雄叫びと混ざり合い、新しい人間の時代の幕開けを告げる祝砲のように、力強く、そして熱く回り続けていた。




