第49話
奥へ進んだ。
天井が少し低くなった。
壁の素材も変わっていて、さっきまでのコンクリートから、もっと古い石組みのようなものになっていた。
踏むたびに足元の苔が湿った感触を返してくる。
明かりも届きにくくなって、視界の先がぼんやりしていた。
「雰囲気が変わりましたね」
日向さんが壁に触れながら言った。声が少し慎重になっていた。
「崩壊前はこのくらいまで来たことなかったです。友達と来た時は、もっと手前で引き返してたので」
俺も新宿第3でここまで深く入ったことはなかった。
未知の領域だ。
少し気を引き締めて、足を進めた。
曲がり角を1つ過ぎたところで、犬型が2体いた。
崩壊前には見なかったサイズで、肩の高さが腰くらいある。
体つきも1回り大きくて、筋肉の付き方が違った。
ただし動き方は既知のものと同じだった。
低く唸りながら間合いを詰めてくる。
走ってくる軌道を読んで板を固定すると、1体目が激突して光に溶けた。
もう1体が仲間の消滅に反応して速度を上げた。
軌道がわずかにぶれたが、修正して2体目も片づけた。
2つ落ちた魔石を、日向さんが拾って収納に入れた。
「さっきより大きかったですね」
「奥に進むほど強くなるのかもしれないです」
「それ、大丈夫ですか?」
「今のところは」
今のところ、という言葉が少し引っかかったのか、日向さんが俺の横顔を見た。
俺は前を向いたまま歩き続けた。
次の通路に進むと、見たことのない小型の何かが3体いた。
体長が30センチほどで、4足歩行だが脚が異様に長い。
クモに似ていたが体の形が違う。
甲殻のようなもので覆われていて、関節が多い。
動きが速くて、走り方が不規則だった。軌道が読みにくかった。
1体目に向けて板を固定したが、直前に方向を変えられて空振りした。
やばい、と思った。
不規則な動きにも一定のリズムがある。
数秒観察して、次の方向転換のタイミングを読んだ。
壁に向かって板を固定すると、曲がり切れずに激突して2体片づいた。
残る1体が天井に逃げた。
天井を走りながらこちらへ向かってくる軌道を読んで、落下点の手前に板を固定した。
飛び降りた瞬間に激突して光に溶けた。
ドロップは魔石だけだった。
「今の、少し焦りましたか?」
日向さんが聞いてきた。
「焦りました。天井に逃げるとは思ってなかったので」
素直に答えてから、少し恥ずかしくなった。
「でも倒しましたよね、ちゃんと」
フォローなのか確認なのかよく分からなかったが、悪い気はしなかった。
牛の気配はまだなかった。
先へ進んだ。
スライムが1体、通路の角に張りついていた。
核を打ち抜いて片づけた。
また犬型が1体、今度は単独だった。
速度があったが軌道は単純で、3秒もかからなかった。
壁から染み出すように現れた小型が2体、さっきと同じ種類だった。
今度は動き方を把握していたので迷わず片づけた。
ドロップは魔石と用途の分からない素材ばかりだった。
日向さんが黙って収納に入れ続けた。
しばらく無言で歩いた。
通路が長かった。
曲がり角を過ぎるたびにまた通路が続いていて、牛の気配はどこにもなかった。
匂いも音も変わらない。干し草どころか、土と石の匂いしかしなかった。
「榊さん、正直に聞きますけど」
日向さんが歩きながら言った。
「このフロアに牛はいると思いますか」
「……分からないです、正直」
「ですよね」
しばらくお互い黙った。足音だけが通路に響いた。
「でも引き返すのも嫌なんですよね」
「俺もそう思ってます」
「じゃあ行きましょう」
それだけだった。2人でまた歩き出した。
◇
次の曲がり角を曲がった瞬間、匂いが変わった。
干し草と獣が混じった、濃い空気だった。
さっきまでの苔と土の匂いとは全然違う、生き物の匂いだった。
いた。
4足歩行で、全身が艶のある黒い体毛で覆われている。
肩の高さが俺の胸あたりまであって、体つきがどっしりしていた。
首が太くて、脚が短い。
どこからどう見ても牛だった。
日向さんが俺の袖をつかんだ。
「あれ、見てください。牛ですよね?」
声が少し上ずっていた。
「牛ですね」
「本物の牛だ……」
走ってきた牛型の軌道に1mm板を固定すると、自分の速度のまま激突して光に溶けた。
光が消えたあとの床を、2人で覗き込んだ。
牛乳ではなかった。
大きな葉っぱに丁寧に包まれた塊が、どっしりと床に落ちていた。
持ち上げてみると3kgはある。
葉をめくると、サシの入り方が尋常じゃない赤身が現れた。
日向さんが3秒ほど無言でそれを見ていた。
それから深く息を吸って、ゆっくり吐いた。
「牛乳じゃなかったですね」
「でもこれ、見てください。このサシの入り方。値段がついてたら俺には手が出ないやつです」
日向さんがしゃがんで両手で持ち上げた。
ずっしりとした重みに少し目を丸くしてから、じっくりと眺めた。
「西村さんに渡したら、とんでもないものを作ってくれそうですね」
それは間違いなかった。
あの人の腕と、この肉の質が組み合わさったら何が出てくるか、想像したら腹が減った。
日向さんが立ち上がって、大事そうに収納に入れた。
それからこちらを向いて、目が少し変わっていた。
「まだいますよね、奥に」
「たぶん」
「行きましょう」
気持ちの切り替わりが早かった。俺は黙って頷いた。
それからしばらく無言で作業した。
黒い牛型が来る。
板を固定する。
光に溶ける。
葉に包まれた塊が落ちる。
日向さんが収納に入れる。
気づけば10頭を超えていた。
「まだ奥に続いてますね」
通路の先に、暗がりがあった。
壁の感じが違う。足を踏み入れた瞬間、音の返り方が変わった。
天井が、遠かった。
さっきまで頭上1メートルもなかった石組みの天井が、どこにあるか分からないくらい上にある。
左右の壁も後退していて、両手を広げても届かない位置まで離れていた。懐中電灯を横に向けると、光が壁に届くまでに少し間があった。
通路が終わって、広間に出ていた。
——いつの間に。
足音が変わったことにも気づいていなかった。狭い通路の反響が消えて、空気そのものが広くなっていた。
地下にこれだけの空間があるとは思っていなかった。
そこで、地面が揺れた。
足音だった。
ただし今まで処理してきた牛型とは重さが桁違いだった。
1歩ごとに石畳が震えて、天井から細かい砂がぱらぱらと落ちてきた。
曲がり角の向こうから現れたものを見て、足が止まった。
ホルスタインだった。
白と黒の模様は牛らしかったが、それ以外は別の生き物だった。
体高が5メートルはある。
1歩踏み出すたびに床が軋む音がした。
目が爛々と光っていて、鼻から白い息が荒く噴き出していた。
日向さんが俺の隣に並んで、しばらく黙ってそれを見ていた。
沈黙が少し続いてから、ぽつりと言った。
「……牛乳、出ますかね」
こんな状況でそこか、と思った。
ただ俺も同じことを考えていたので何も言えなかった。
巨大ホルスタインがこちらをゆっくりと見て、低く、腹の底に響くような声で鳴いた。




