第37話
朝、目が覚めて最初にしたことは昨夜の鍋を火にかけることだった。
残った汁物を温めながら、棚から乾パンを出す。
非常用の缶に入っているやつで、味は可もなく不可もなく、とにかく腹に入るというだけの食べ物だ。
椀に汁をよそって、乾パンと並べてテーブルに置いた。
見た目の組み合わせが悪い。
魚の出汁が効いた汁物と、味気ない乾パン。
どちらも悪くないが、一緒に食べるものではない気がする。
ただ贅沢を言える状況でもないので、乾パンを汁に浸して食べることにした。
柔らかくなった乾パンは悪くなかった。
一メートル半の魚と格闘した翌朝の飯がこれかという気持ちは少しあったが、それは言っても仕方がない。
パンと卵が食べたいという気持ちだけが残った。
ノートを開いて書き足した。
『朝食:乾パン+魚汁。組み合わせの問題あり。パン・卵:要確保。野菜:要確保。手段:未定。』
書いているうちに課題が増えた。
とりあえず今日は御苑へ行く。帰りに何か考える。
食べ終えてから皿を洗い、装備を確認した。
ナイフ、クーラーボックス、竿、リュック。救命胴衣を羽織って、帽子を被る。
鏡があれば直視したくない格好だが、鏡を見る習慣はとっくになくなっていた。
◇
タワマンを出ると朝の空気が顔に当たった。
植物に覆われたビル群が朝日を受けて、崩壊前とは別の色をしている。
アスファルトの割れ目から太い根が這い出して、放置された車のボンネットには苔が張り付いていた。
半年前まで人が行き交っていた道が、今は別の何かのものになっている。
自転車に跨ってペダルを踏んだ。
道中で犬型が一体、路地の角から飛び出してきた。
加速しきったところ。
軌道の正面に極小キューブを固定する。
個体は自分の速度のまま激突した。
光に溶けた。
自転車を止めることすらしなかった。
魔石を拾うために少しだけ減速して、またペダルを踏む。
御苑の正門前に自転車を止めた。
蔦が絡みついた門を押し開けると、緑と土と水の匂いが混じった空気が流れてきた。街中とは明らかに違う。
雑草が腰の高さまで伸びて、木々が好き勝手に枝を広げているが、空気だけは崩壊前と変わっていない気がした。
◇
池の前に腰を下ろして竿を繋いだ。
糸を通して針を結んで、岸辺の石をひっくり返してミミズを一匹針に刺す。
竿を振り込むと浮きがぷかりと水面に落ちた。
待つ。
葦が風に揺れる音だけがしていた。
三分も経たないうちに浮きが沈んだ。
竿を立てる。
糸が張る。
前回と同じ重さが腕に伝わってくる。
水面がざわついて波紋が広がり、影が二つ、ほぼ同時に上がってきた。
二体いた。
それぞれ別の軌道でこちらへ向かってくる。
金属光沢の鱗が朝日を反射してぎらぎら光りながら、二つの塊が空中に躍り出た。
瞬間。
頭の中で軌道を二本同時に追う。
左側の個体のエラの位置に極小キューブを固定した。
個体が自分の速度のまま激突して光に溶けた。
右側の個体が落下してくる軌道。
もう一個固定する。
着地する前に光になって消えた。
葉っぱに包まれた塊が二つ、草むらに落ちた。
息をついてから気づいた。手が少し震えていた。
二本の軌道を同時に処理したのは初めてだった。
うまくいったからよかったものの、どちらか一体でも間に合わなかったら普通に飛びかかられていた。
拾い上げてクーラーボックスに収める。
もう少し粘ることにして、竿を振り込んだ。
今度は少し待ってから三体目が来た。同じ手順で処理した。
柵が三本分、クーラーボックスに収まった。一本あたり二キロ弱、合わせて六キロ近い。
魔石が三個、リュックに入っている。
ノートを開いた。
『魚型:複数体同時対応確認。極小キューブ有効。エラへの直撃で即仕留め可能。定期的に来る価値あり。』
書き終えてペンを置いた。
今日はこれで十分だ。帰りに畑を探す。
◇
クーラーボックスの蓋を閉めて荷台に括り付けた。
自転車を押して感触を確かめると、多少重いが問題ない範囲だった。
御苑を出て自転車に跨った。
ペダルを踏んだ瞬間から速度が乗る。
信号も車も人もない道を、身体が勝手に加速していく。
体感で三十キロは超えている。息が上がらない。
荷台に六キロ積んでいることを忘れるくらい、脚が軽かった。
崩壊前の自分がこの速度でこの距離を走ったら、翌日は動けなかったはずだ。
タワマンとは逆方向に進路を取った。
郊外の方向へ向かうと、街の密度が少しずつ薄くなっていく。
ビルが減って低い建物が増えて、道の両側に庭付きの民家が並び始めた。
植物の侵食は街中と変わらないが、もともと緑が多かった分だけ景色が違う。魔物の気配も薄い気がした。
◇
住宅街の路地に入ってしばらく走ると、道沿いに畑が見えてきた。
民家の庭先ではなく、ある程度まとまった区画で作られた畑だった。
崩壊前は丁寧に管理されていたのだろうことが畝の整え方から分かる。今は雑草が伸び放題で、畝の跡が草の下に埋もれていた。
自転車を止めて近づき、草をかき分けて中を確認する。
トマトの茎が残っていた。
実がいくつかついているが、ほとんどは割れているか腐っている。
形を保っているものを探すと、三個だけ見つかった。
手に取って表面を確認する。色が少し薄いが張りがある。鼻を近づけるとトマトの匂いがした。
一個その場で食べた。
酸味と甘みが口の中に広がって、昨日の刺身とはまったく別の何かが身体に入ってくる感覚があった。
うまいというより、足りていなかったものが補填される感じだ。
残り二個はリュックに入れた。
畑の前にしゃがんで、頭の中で考える。
この規模の畑を回収できたとして、量はたかが知れている。自分で畑を作るには土がない。道具も知識も足りない。
ただ、魚と肉は取れる。
中学校には宮本がいる。土壌生成スキルで畑を作っていて、食料が不足しているのは分かっていた。
魚と肉を持っていけば野菜と交換できる可能性がある。計算として筋は通っている。
桐島に会うことになるが——まあ、また来い、と言っていたのは向こうだ。
行く理由ができた、ということにしておく。
ノートを開いた。
『物々交換:魚・肉→野菜。相手:宮本。中学校へ行く。明日、肉と魚を確保してから向かう。』
◇
タワマンへ向かう帰り道で、鳥型が二体、廃ビルの屋上から急降下してきた。
翼を畳んで一直線に落ちてくる軌道に極小キューブを固定すると、二体とも自分の速度のまま激突して光に溶けた。
葉っぱに包まれた胸肉が二つ、アスファルトに落ちた。リュックに収める。
次の角を曲がったところで、イノシシ型が一体、路地の奥から飛び出してきた。
体高は膝くらいで小ぶりだが突進の速度は速い。
加速しきったところで軌道の正面に極小キューブを固定すると、個体は自分の速度のまま激突して光に溶けた。
葉っぱに包まれた塊がアスファルトに転がった。
持ち上げるとずっしり重い。クーラーボックスはすでに柵で埋まっているので、リュックに押し込んだ。
タワマンに帰り着いたのは昼過ぎだった。
荷物を下ろしてキッチンに並べる。
魚の柵三本、鳥型の胸肉二枚、イノシシ型の塊一個。
明日の物々交換には十分な量だった。
ノートに書き足した。
『肉・魚:確保完了。明日、中学校へ向かう。』
書き終えてペンを置いた。
また来い、と言った桐島の顔が頭をよぎった。
感慨でも何でもなく、ただの記憶として。
それだけのことだったが、少し気になっていた。




