第36話
水面の下から、影がゆっくりと上がってくるのが見えた。
大きい。かなり大きい。
輪郭がぼやけていて、はっきりとは見えないが、俺が想定していたどの魚のサイズとも一致しなかった。
そして水面が割れた。
体長一メートル半はあるだろう。
鯉に似た体型だが横幅が分厚くて、成人男性の胴回りくらいはある。
鱗が一枚一枚、金属を薄く叩き延ばしたような光沢を持っていて、水中から飛び出した瞬間に反射光が周囲に散った。
口の端に牙が二本、上顎から外にはみ出している。
目が黄色くて、虹彩がなく、水面越しにこちらをまっすぐ見ていた。
狙いは俺だった。
獲物を認識して、最短で仕留めにくる動きだった。
金属光沢の鱗が夕日を反射してぎらぎら光りながら、一メートル半の塊が一直線にこちらへ向かってくる。
釣りをしていたら魚に飛びかかられた。どう処理すればいいんだこれは。
ただ軌道は読めた。
着地点の手前に板状のキューブを固定した。
個体は自分の速度のまま側面からキューブに激突して、草むらの上に落ちた。
ぐちゃ、という音がした。
◇
個体は着地してすぐ起き上がろうとした。
体長一メートル半の魚が地上で暴れると想像以上の迫力で、尾びれが地面を叩くたびに土と草が飛び散り、金属光沢の鱗が日光をあちこちに反射させた。
またこちらへ向かおうとするので、板状のキューブを両側面と背中側に追加して固定した。
三枚の板に挟まれた個体は横方向の動きを完全に止められて、尾びれだけが虚しくバタバタしている。
「落ち着け」
どちらに言っているのか自分でも分からなかった。
魚に言い聞かせても意味はないし、俺が言われる側なのかもしれない。
ナイフを取り出して頭の後ろ側を確認する。
鱗が分厚くて外からは判断しにくいが、頭の後ろ側、鱗の端にわずかに薄くなっている部分があって、定期的に動いていた。
呼吸している場所だ。
そこにナイフを当てると個体が全力で暴れたが、頭が向かってくる動きを踏ん張りながらナイフを深く押し込んで一気に引いた。
個体の動きが止まって、尾びれが数回動いてから静かになった。
それから個体は光の粒になって消えた。
草むらの上に、葉っぱに包まれた塊が残っていた。
持ち上げるとずっしり重い。
葉っぱを開くと、半透明に透けた淡いピンク色の身が出てきた。
断面が均一で、骨も皮もなく、すでに柵の状態に整っていた。
鼻を近づけると海水魚に近い匂いがするが、嫌な感じはまったくない。
「……刺身じゃないか」
クーラーボックスに丁寧に収めて蓋を閉めた。
魔石を一個拾ってリュックに入れる。
池の水面は元通り穏やかになっていた。
葦が風に揺れて、水と土の匂いだけが残っている。
竿はまだ岸に刺さったままで、糸が風に揺れていた。
釣果という意味では魚に飛びかかられて迎撃しただけなので、これを釣りと呼んでいいのかどうか微妙なところだが、クーラーボックスの中身は本物なので結果としては問題ない。
問題が一つある。
わさびがない。
醤油はタワマンにある。しかしわさびがない。
一メートル半の魚と格闘した末に行き着く悩みがわさびの有無というのも、だいぶ間の抜けた話だった。
帰り道にスーパーに寄ることにした。
◇
御苑を出て自転車に跨った。帰り道は来た道をそのまま戻る形になる。
ペダルを踏みながら周囲を確認すると、行きに処理した犬型の魔石だけが路面に残っていた。新しい気配はない。
荷台のクーラーボックスが自転車のバランスを少し変えていて、慣れるまで数回ふらついたが、すぐに感覚が戻った。
スーパーは御苑から十分ほどの場所にあった。
ガラスが割れたままの入口を押し開けると、腐敗臭が漂ってくる。
生鮮コーナーは見るも無残な状態だが、調味料の棚は手付かずに近い状態で残っていた。
チューブわさびが三本あったので全部リュックに入れて、棚の端に残っていたぽん酢も一本加えた。
ついでに棚を流し見すると白だしが一本残っていたのでそれも入れた。汁物に使える。
◇
タワマンに帰り着いたのは夕方前だった。
自転車を一階に置いてエレベーターで四十五階へ上がり、クーラーボックスをキッチンに置いて柵を取り出す。
まな板の上に乗せて改めて見ると、色が均一で臭みがなく、状態がいい。
御苑からここまで運んでくる間も劣化した様子がまったくない。
魔物のドロップ品は腐敗しないという仕様が魚型にも適用されているらしかった。
包丁を引いた。
断面が滑らかで、繊維が詰まっていて、身に張りがあった。
切るたびに光を反射してうっすら光り、皿に並べていくと淡いピンク色が揃って見た目がいい。
切りながら、この身がどういう味なのか少しずつ気になってくる。
鯉に似た体型だったが淡水魚の臭みはなく、海水魚に近い匂いがしていた。
食べてみないと分からないことは食べてみるしかない。
醤油を小皿に出して、わさびをチューブから適量絞った。
一切れつけて口に入れた。
止まった。
口の中でとろける感触と、鼻に抜ける香りと、わさびの刺激が順番にきた。
甘みがあって後味がきれいで、養殖の鮭とも天然の鯛とも違う初めての味だった。
もう一切れ取って口に入れると同じだった。三切れ目も同じだった。
「……うまい」
皿の半分ほどを刺身で食べてから、残りの処理に入った。
柵をひと口大に切り分けて、鍋に水を張って火にかける。
沸騰する前に昆布を入れて、弱火でゆっくり出汁を取った。
昆布を引き上げてから切り分けた身を加えると、鍋の中で白く火が通っていく。
缶詰の野菜を加えて、白だしと塩で味を調えると、魚の旨味が溶け出した透き通った汁になった。
椀によそって一口飲んだ。
出汁がちゃんと出ていて、後味がきれいで、刺身に負けず劣らずうまかった。
ただ一つだけ惜しいことがあった。
ドロップが柵だけだったので、アラがない。
頭も骨も内臓も皮も、何もかも光と一緒に消えた。アラ汁が作れない。
魚を仕留めたのにアラ汁が作れないというのは、料理をする人間として純粋に惜しかった。
あの頭と骨で出汁を取ったら、今の汁物とは比べ物にならないものができたはずだ。
魔物のドロップ仕様に文句をつけても仕方がないのは分かっているが、そういう問題じゃなくて惜しいものは惜しい。
「……もったいないな」
独り言が出た。誰も聞いていない。
刺身と汁物を交互に食べながら窓の外を見た。
植物に覆われたビル群が夕日に染まって、崩壊前とは別の景色になっていた。
悪くなかった。静かで、飯がうまくて、それだけのことだったが、今はそれで十分だった。
食べ終えてからノートを開いた。
『魚型:御苑の池に生息確認。陸上戦に持ち込めば固定→ナイフで対処可能。ドロップ:柵(刺身可)・魔石。腐敗なし。アラなし。複数生息の可能性あり。要確認。』
書き終えてペンを置いた。
また行こう、と思った。次は複数いる前提で動いた方がいい。
それと、アラが出ないことへの対策は特にないので、惜しいという気持ちだけノートに残して終わりにした。




