第35話
朝、タワマンを出る前にノートを確認した。
釣り竿。糸。針。帽子。救命胴衣。クーラーボックス。
書き出したリストを眺めながら、どれもホームセンターで揃うはずだと判断する。
釣りというのは形から入らないと始まらない。
竿も持たずに池の前に立っても、ただの不審者だ。
リュックを背負って外へ出た。
◇
ホームセンターの自動ドアは電力が死んでいて、手で押し開けるしかなかった。
薄暗い店内に外の光が差し込む。
埃の匂いと、微かな錆の匂いが混じっていた。
以前来たときより空気が澱んでいる気がするが、換気していないのだから当然だ。
釣り具コーナーは奥の右側だった。
竿は何種類かそのまま残っていて、軽くて持ち運びやすそうな一本を選んだ。
糸と針はセットになったものを二つ、予備として確保した。
次に帽子だ。
屋外での長時間作業を想定すると、日差しを遮るものが必要になる。
アウトドアコーナーでつばの広いものを一つ手に取って、試しに被ってみた。
視界が少し狭くなる感覚があるが、慣れの問題だ。そのままリュックに括り付ける。
救命胴衣は防災用品コーナーにあった。
子供用と大人用が並んでいて、大人用を一つ取り出す。
池に落ちたときのリスクを考えると、持っていかない理由がない。
荒廃した東京のホームセンターで救命胴衣を選んでいる大学生の絵面は、客観的に見てかなりまずいが、うまい魚のためなら合理的な準備だと自分に言い聞かせた。
クーラーボックスは大型と小型が残っていた。小型を選ぶ。
荷台付き自転車で運ぶ前提だが、そもそも自転車がまだ手元にない。
問題を一つずつ潰すしかない。
クーラーボックスを抱えて、来た通路を戻ろうとしたとき——人影が見えた。
◇
通路の奥、防災用品コーナーの前に二人いた。
一人は若い男で、二十代前半くらいだろうか。体格がよく、右手にバットを持っている。
目つきが鋭くて、こちらを見た瞬間に全身の緊張が上がるのが分かった。
もう一人は細い体つきの子供で、男の斜め後ろに立っていた。十代前半に見える。
顔色が悪く、男の背中に半分隠れるようにして立っている。
男がこちらへ一歩踏み出した。
「……スカベンジャーか」
低い声だった。バットを持つ手に力が入っている。
俺はクーラーボックスを床にゆっくりと置いて、両手を見せた。
「釣り具を取りに来ただけだ。そっちの邪魔をするつもりはない」
男は返事をしなかった。
こちらの言葉を聞いているのかどうかも分からない目で、じっとこちらを見ている。
次の瞬間、男が踏み込んできた。
踏み込みが速い。通常の人間の動きではない。身体強化系のスキルを使っている。
バットが頭上から振り下ろされる軌道に、板状のキューブを固定した。
鈍い音がした。
バットがキューブに激突して、男の手に衝撃が走る。
男が一歩後退した。手を押さえながら、目の前に浮かんでいる黒い板を見ている。
反動の角度を見て、俺は判断した。殺しにくる一撃ではなかった。
追い払おうとしている、あるいは威嚇だ。本気で仕留めにくるなら、踏み込みの深さが違う。
「お兄ちゃん、やめて」
子供の声が通路に響いた。男が振り返る。
子供が男の腕を両手で掴んで、引いている。
男は腕を引かれるままに、もう一歩後退した。
「この人は敵じゃない」
男は何も言わなかった。子供を見て、また俺を見て、それからバットを下ろした。
納得した顔ではなかったが、子供の言葉を否定もしなかった。
しばらく静けさが続いた。
子供が男の腕を離して、一歩前へ出た。俺の方を見ている。
顔色は悪いが、目に力がある。
「すみません、兄が乱暴なことをして」
深く頭を下げた。
「気にしない。こっちも急に入ってきた」
子供が顔を上げた。少し間があってから、また口を開いた。
「あなたとは、またお会いすると思います」
断言するような言い方だった。感情の起伏がない。確信があって言っている。
「兄はああいう人間ですけど、悪い人じゃないので」
男が子供の方を見た。何か言いたそうな顔だったが、何も言わなかった。
俺は少し間を置いてから、頷いた。
「分かった」
それだけ答えて、クーラーボックスを拾い上げた。
出口へ向かいながら、さっきの子供の言葉を頭の中で繰り返した。
またお会いすると思います。
根拠があって言っている口調だった。普通の子供が使う言い方ではない。何かを知っているのか、あるいは感じているのか。
答えは出なかったが、普通ではないという印象だけが残った。
男の方は——追い払おうとしていた。殺しにくる攻撃ではなかった。それだけは分かった。
自動ドアを押し開けて外に出ると、駐輪場に数台の自転車が残っていた。
荷台付きのものを一台選ぶ。後輪にリングロックがかかっていた。
後輪を少し持ち上げて、リングの真下に一ミリの板状キューブを出現させた。そのまま後輪を下ろす。
タイヤの重さがリングへ伝わって、金属が軋む音がした。
リングロックが真っ二つになって、アスファルトに落ちた。
鍵を開けるのに鍵穴もピッキングも必要なかった。
一ミリの板状があれば、あとは重さだけで済む。
荷台にクーラーボックスを括り付けて、釣り具をリュックに収める。
帽子を被り直して、救命胴衣の位置を確認した。
竿、糸、針、帽子、救命胴衣、クーラーボックス、自転車。リストの項目が全部埋まっている。
形は整った。ペダルを踏んだ。
◇
新宿御苑までの道は、思っていたより静かだった。
自転車のペダルを踏みながら周囲を確認する。
以前この辺りを歩いたときと比べて、魔物の気配が薄い気がするが、数字で確認できないことを根拠にするのは性に合わない。
気のせいかもしれないし、時間帯の問題かもしれない。そのまま漕ぎ続けた。
御苑の正門前に自転車を止めた。
門は半開きのままになっていて、蔦が絡みついている。
以前は整備された庭園だったはずだが、今は雑草が腰の高さまで伸びていて、木々が好き勝手に枝を広げている。
それでも空気は澄んでいた。街中とは明らかに違う、緑と土の匂いがする。
気配を確認してから、中へ入った。
◇
道中で犬型が二体いた。
草を嗅ぎながらこちらへ向かってくる二体の進行方向に一ミリのキューブを固定すると、順番に光になって消えた。
魔石を二個拾ってリュックに入れる。
今日のメインは釣りなので、これはついでだ。
池が見えてきたのは、門から五分ほど歩いたところだった。
思っていたより大きかった。
水面が穏やかで、風が吹くたびに細かい波紋が広がっている。
岸辺の葦が揺れて、水と泥と藻が混じった匂いが鼻に届いた。水が生きている匂いだ。
岸の近くに腰を下ろして、竿を繋ぎ合わせた。糸を通して、針を結ぶ。
岸辺の石をひっくり返すとミミズが数匹いて、一匹を針に刺した。現地調達完了だ。
竿を池に向かって振り込んだ。
糸が弧を描いて、浮きがぷかりと水面に落ちる。
しばらく何も起きなかった。
葦が風に揺れる音だけがしていた。水面は穏やかなままで、浮きも動かない。
救命胴衣が少し窮屈だったが、外す理由もないのでそのままにした。
荒廃した東京の池の前で救命胴衣をつけたまま釣り糸を垂れている大学生の絵面は、客観的に見てかなりまずいが、形から入ると決めた以上は仕方ない。
浮きが、沈んだ。
一瞬だけ間を置いてから竿を立てると、糸が張って両手に重さが伝わってきた。
通常の魚の引きではない感覚が、じわじわと腕に上がってくる。
竿が大きくしなって、糸が水面を横に走った。
リールを巻く。
抵抗が強くて、なかなか寄ってこない。それでも少しずつ距離が縮まっていくのが糸の角度で分かる。
水面がざわついて、波紋が広がった。
水面の下から、影がゆっくりと上がってくるのが見えた。
大きい。かなり大きい。
輪郭がぼやけていて、はっきりとは見えないが、俺が想定していたどの魚のサイズとも一致しなかった。
水面が盛り上がった。




