第34話
夜が深くなった頃、バルコニーの方から鳴き声が聞こえた。
テーブルの発光素材に触れて光を消す前に、窓の外を確認した。
暗い空の中に、黒い影が複数動いている。
翼を広げた輪郭が、街の残光にうっすらと浮かんでいる。四体、いや五体か。
バルコニーの発光素材の光に引き寄せられるように、旋回しながら高度を下げてきていた。
まずい。光を消すのを忘れていた。
窓から一歩下がって、壁に背をつける。
バルコニーの手すりの内側に、一ミリのキューブを三個固定してあるはずだ。
あとは向こうが突っ込んでくるのを待つだけだ。
待つだけ、のはずだ。
群れの先頭が降下してきた。
バルコニーの手すりを越えて、内側に入った瞬間——光の粒子になって消えた。
魔石と、葉っぱに包まれた胸肉がバルコニーの床に落ちた。
残りの四体が空中で散った。
旋回しながら距離を取って、また近づいてくる。
学習しているのか、それとも単に混乱しているだけなのか判断がつかないが、次の一体がバルコニーの外側から侵入経路を変えて突っ込んできた。
バルコニーの外側だ。
キューブの射程外になる可能性がある。
窓を少し開けて、外側の空間にキューブを追加で固定した。
飛行型が翼を畳んで突っ込んでくる。
キューブには気づかない。
そのまま突っ込んで——光になった。
今度は外側で消えた。
ドロップ品が落下していった。
バルコニーの手すりの外側、四十五階の高さから真下へ。
葉っぱに包まれた胸肉が、夜の空気の中を落ちていくのが見えた。
……葉っぱに包まれたまま、真っ逆さまだ。
合掌、と思ってから、これは俺のせいだと気づいた。
しばらく、落ちていった方向を見ていた。諦めるしかない、は分かってる。
ただそれでも、しばらく下を見ていた。
葉っぱに包まれたまま落ちていった胸肉の行き先が、なんとなく気になった。
残り三体がまだ旋回している。
気を取り直して、残りを処理した。二体は侵入経路に固定したキューブで仕留めた。
最後の一体は距離を取ったまま旋回を続けていて、しばらく待っても近づいてこない。
諦めたのか、警戒しているのか。結局そのまま闇の中へ消えていった。
バルコニーに出て、ドロップ品を回収した。
魔石が四個、葉っぱに包まれた胸肉が三つ。
冷たい夜風がバルコニーを吹き抜けていった。
発光素材を拾い上げて室内に持ち込んだ。
バルコニーに光を置いたままにするのは、今夜で懲りた。
ノートに書き込む。
『飛行型:夜間侵入。バルコニー手すり内側キューブ有効。外側からの侵入に要注意。発光素材は屋内保管推奨』
それだけ書いてから、一行付け加えた。
『胸肉一つ、回収不能。合掌』
◇
胸肉をテーブルの上に並べた。腐らない。これだけは毎回助かる。
ノートを開いて、テーブルに座った。
肉は確保できる。塩もある。米と缶詰の備蓄もある。問題はそれだけだということだ。
単独行動に戻ってから、野菜を口にしていない。
中学校にいたころは西村さんが青菜の和え物や漬物を出してくれていたが、あそこを出てからは肉と米と缶詰だけの生活に戻っている。
体が何かを欲している感覚がある。
何が不足しているか正確には分からないが、箸が自然に別の何かを探しているような、うまく言語化できない渇望だ。
野菜の調達手段を書き出してみる。
近隣の建物に残っている缶詰や乾物を探す。野生化した植物を採取する。栽培する。あるいは——生存者と交換する。
ペンが止まった。
肉ならある。向こうが野菜を持っていれば、交換が成立する可能性がある。合理的な手段だ。
ただし生存者と接触するリスクも伴う。
どんな人間かも分からない相手と取引するのは、慎重に条件を整える必要がある。今すぐ動く話ではない。
とりあえず保留にして、次のページへ移った。
頭の中で、ずっと魚のことを考えていた。
焼き魚の匂い、味噌汁に入った切り身、刺身の食感。肉とは全く違う、あの味だ。
単独行動に戻ってから一度も口にしていない。
うまく言葉にならない飢えが、胃の辺りに居座っている。
「……魚が食いたいな」
独り言が出た。
声に出してから、思っていたより強く欲していることに気づいた。
東京に魚がいる場所を考える。隅田川、荒川、新宿御苑の池。
タワマンからの距離と道中の魔物の密度を考えると、新宿御苑が最も現実的だ。
歩いて三十分以内で、周辺の魔物の種類はある程度把握している。池に魚がいるかどうかは行ってみないと分からないが、試す価値はある。
「明日、行くか」
ノートに書き込んだ。
『新宿御苑偵察。目的:魚の有無確認。釣り具の調達要。道中の魔物対処方針、要検討』
書き終えてから、釣り具がどこで手に入るか考えた。
ホームセンターに釣り用品コーナーがあった記憶がある。竿、糸、針、餌。
餌は現地調達できるかもしれない。釣れるかどうかは分からないし、釣れたとして調理できるかどうかも別の問題だ。
問題が多い。
テーブルの上の発光素材に触れると、ぼんやりとした光がキッチンを照らした。
窓の外は静かで、鳴き声はもう聞こえない。テーブルの上に胸肉が三つ並んでいる。
決戦の翌日に釣り竿を探しに行く男の絵面を頭の中で思い浮かべてから、うまい魚が食えるなら絵面がどうであれ関係ないと思った。
ノートをもう一度開いて、一行付け加えた。
『優先順位:魚>野菜(交換案は要検討)』




