第28話
松永さんからもらったマップを頭に入れて歩いた。
中学校の校門を出てすぐ、街の空気が変わる。
建物の外壁はどこも蔦や苔に覆われていて、アスファルトの割れ目から太い根が這い出している。
崩壊から半年、植物の侵食は思ったより速い。
人間がいなくなった街は、別のものが埋めていく。
俺はそれを感慨もなく確認しながら、マップと照らし合わせて南へ歩いた。
香織は後ろについてきている。
足音が小さく、余計なことをしゃべらない。悪くない。
ぽこん、すっ。
手癖が出る。
歩きながらキューブを出して、消す。出して、消す。
空中に黒い立方体が現れては消える。
通行人がいれば間違いなく二度見する光景だが、今この街に通行人はいない。
電柱の上に一体いた。
翼開長は一メートル弱で、首を傾けてこちらを見ている。
浅層種に近い小型だ。
ああいう個体は、人間が近づくと一直線に来る。
軌道が読める。
「あぶない」
香織の声と同時に、個体が翼を畳んで急降下してきた。
真上から一直線だった。
キューブを鳥の正面、高さを合わせて固定すると、個体は自分の速度のまま激突して光に溶けた。
葉っぱに包まれた胸肉のかたまりが、静かに路面へ落ちた。
振り返ると、香織が目を丸くしていた。
「……当たり前みたいにやりますね」
「軌道が読めれば、そうなりますよ」
二体目は路地の突き当たりにいた。
壁際で首を動かしながらこちらを見ている。
俺が路地の入口で立ち止まると、個体が翼を広げた。
飛びかかってくる軌道を読んで、射程に入った瞬間にキューブを正面へ固定した。
個体は自分の速度のまま激突して光に溶けた。
ドロップを回収して、次へ移る。
ぽこん、すっ。
三体目を探して路地を曲がったとき、二体目の処理に意識が向きすぎていた。
建物の陰、日が当たらない側の二階——そこに個体がいたことに気づいたのは、翼を広げた音を聞いてからだった。
狙いは香織だった。
キューブを出そうとしたが、距離が足りない。
射程に入っていない。
爪がすでに香織の目前まで来ていた。
間に合わない。
次の瞬間、香織の全身が白く光った。
爪が弾かれ、個体が勢いのまま横へ吹き飛んでコンクリートの壁に激突し、動かなくなった。
光に溶けた。
静かになった。
香織は無傷だった。
スキルが発動した。だから生きている。
それだけのことを事実として処理したが、死角の確認が遅れたという事実は消えなかった。
ノートに書く内容が一行増えた。
「怪我は」
「ないです」
ドロップを回収して、近くの建物の陰に入った。
周囲を確認してから香織に向き直る。
「さっきのスキル。絶対防壁、ですか」
香織の目が少し動いた。
「知ってたんですか、それ」
「名前だけ。詳しいことは何も知りません」
「そうですか」
香織は言って、少し考えてから続けた。
「崩壊する前に、声だけの神様みたいなのが来て、最初に収納のスキルをくれたんです。無限に物が入るやつで、それが嬉しくてありがとうございますって言ったら、急に愚痴が始まって」
「愚痴」
「直前に会った人がひどかったって。スキルを渡そうとしたら仕様書を要求してきたとか、話が全然噛み合わないとか、神秘への理解度がゼロだとか、しばらく止まらなくて。私が大変でしたねって言ったら、そうなんですよあなたはよく分かってくれますね、さっきのやつとは大違いだって、そのままなんか盛り上がって、気づいたら防壁のスキルもくれてました」
俺の手が、一瞬止まった。
「……盛り上がって、くれた」
「はい。流れで、という感じで」
俺はしばらく何も言わなかった。
羨ましいとは思わない。
あの状況で仕様書を要求したのは正しい判断だったし、説明のつかないものに人生を預ける気にはなれない、それは今も変わらない。
チートスキルを二つ、愚痴の相槌一つで手に入れた人間のことを、羨む理由がどこにもない。
ノートを開いた。
何か書こうとして、何も書けなかった。
ノートを閉じた。
「……愚痴、長かったですか」
「すごい、長かったです」
「そうですか」
俺は言った。
それ以上は何も言わなかった。
◇
「少し聞かせてください」
俺はノートを開いてペンを持った。
「イージスの範囲は自分だけですか、周囲も守れますか」
「自分だけだと思います。さっきも私だけ光ったので」
「連続で使えますか」
「試したことがないので分からないです」
「発動するとき、意識してやりましたか。それとも勝手に出ましたか」
「勝手に出ました。爪が来たとき、気づいたら光ってたので、自分でも驚いてて」
反射発動、意識不要、範囲は術者のみ、連続使用の限界は未確認。
把握できていない項目の方が多いが、把握できていないこと自体が情報だ。
使い込んでいけば仕様が見えてくる。自分がそうだったように。
「収納の方も聞きます。容量の上限は分かりますか」
「分からないです。今まで入れたものが全部入っているので」
「取り出すとき、タイムラグはありますか」
「出そうと思ったら出るので、たぶんないと思います」
「収納中に食材は劣化しますか」
香織が少し考えてから答えた。
「たぶんしてないです。前に果物を入れておいたんですけど、三日後に出したら採れたてみたいな状態だったので、たぶん中では時間が止まってるんじゃないかと思って」
「これ、取調べですか」
香織が言った。
俺は答えなかった。
ノートに書き込みながら、情報の等価交換として伝えた。
「スキルは使い込むほど性能が上がります。身体能力も一緒に上がっていく。自分で確認してます」
香織がしばらく考えてから、思い当たったように言った。
「そういえば、収納を使いだしてから体が軽い感じがしてて。最初は気のせいかなと思ってたんですけど」
収納に物を入れているだけでいい。
日常動作の延長で回数が稼げる。
自分がキューブを何万回と出し入れして積み上げてきたものと、仕組みは同じだった。
羨ましくなんか。
「……収納の中で時間が止まるなら、魔物の肉じゃなくてもいいですね」
独り言のように出た。
「そうなりますね」
香織は言った。
俺はノートから目を上げなかった。
物を入れているだけで身体能力が上がって、時間停止の収納まである。
それを愚痴の相槌一つで手に入れた人間が隣に座っている。
羨ましくなんか——という言葉が今日何度目かになりそうで、俺は黙ってノートに視線を戻した。




