第29話
帰り道。
廃ビルの一階から、ひときわ巨大な影が飛び出してきた。
体高一メートルを超えるイノシシ型だ。
長く反り返った牙を突き出し、一直線にこちらへ向かってくる。
個体が加速しきったところで、軌道の正面にキューブを固定した。
鈍い衝突音とともに個体が勢いのまま激突し、動かなくなったところをナイフで仕留める。
光に溶けた跡には、巨大な肉の塊が転がっていた。
両手で抱え上げると、ずっしりとした重みと、かすかな生温かさがある。
俺一人だったら、半分も持ち帰れなかっただろう。
「全部入りますか」
俺が聞くと、香織は無言で収納し始めた。
大量の鳥型の胸肉とイノシシ型の塊が、四次元ポケットに吸い込まれるように一瞬で消える。
神の与えた奇跡を前にして申し訳ないが、俺の頭に浮かんだのは「超高性能な業務用冷蔵庫」という評価だった。
戦力としてではなく、物流として考えたとき、香織の収納は現状で最も有効な資産だ。
ぽこん。
すっ。
俺たちは中学校へ向かって歩き始めた。
西村さんは調理場にいた。
「持ってきました」
香織が収納から取り出した肉を並べると、西村さんの手がピタリと止まった。
鳥型の胸肉が十五枚、イノシシ型の塊が二キロ近くある。
「……本当に持ってきたのか」
「言った通りです」
西村さんが塊肉を手に取る。
鼻を近づけて獣特有の臭みがないか確かめ、次に指で押して肉の弾力と断面の色を確認した。
しばらく無言で見つめている。
「臭みがない。血抜きはしたのか」
「ドロップ品なので最初からないです。腐敗もしません」
西村さんがまた黙った。
料理人が真剣に食材と向き合うときの顔だ。
さっきまでとは別の人間のようだった。
「イノシシに近い味だと言ってたな」
「食べた感覚ではそうでした。ただ、調理したのは俺なので、西村さんが料理したものとは別物になると思います」
西村さんが短く笑った。
笑うような人間だとは思っていなかったので、少し意外だった。
「……夕食に出す」
「お願いします」
食堂に戻ると、大森が今日も定位置に座っていた。
しばらくすると、厨房からいつもと違う匂いが漂ってきた。
毎日芋ばかりだった空間を、獣の脂が煮込まれる濃厚な匂いと、油ではじける香ばしい香りが上書きしていく。
その瞬間、食堂の空気が露骨に変わった。
子供たちが立ち上がって首を伸ばしている。
本日のメニューは、イノシシ型の煮込みと、鳥型の唐揚げのようだ。
大森が盆を受け取って、中身を見た。
「何だこれは。魔物の肉か」
声が通った。
食堂全体に届く大きさだった。
「こんなもの食えるわけないだろ。人間の食べ物を出せ」
倉橋が隣で頷く。
「そうよ、私たちに魔物の肉なんて。どういう神経してるの」
言いながら盆を押しのける。
周囲がざわついた。
廊下から足音が来た。
西村さんだった。
エプロンをつけたまま食堂の入口に立ち、大森と倉橋を見ている。
調理場から声が聞こえていたのだろう。
「嫌なら食べるな」
静かな声だった。
ただ、温度がまったくなかった。
「今後、お前らの分は作らない。その辺の草でも食ってろ」
大森が何か言いかけたが、西村さんはそれを聞かずに踵を返し、調理場へ戻っていった。
食堂が水を打ったように静まり返った。
大森は口を開けたまま固まり、倉橋は盆を押しのけた手をそのままにしている。
誰も庇わなかった。
桐島さんも何も言おうとはしなかった。
俺は少し離れた席から一部始終を見ていた。
そりゃそうなるわな、と思う。
何の労働もしないで文句ばかり言う、偉そうなお荷物なのだから。
倉橋の表情だけ、少し変わったように見えた。
怒っているのとも、恥じているのとも違う顔だった。
ただ、さっきまでとは明らかに違っていた。
久しぶりの肉の匂いが食堂に広がっている。
唐揚げに手を伸ばした子供が目を丸くし、隣の大人は一口食べて黙り込んだ。
その顔がすべてを物語っている。
子供が二人、俺のところへ来た。
小学校低学年くらいだった。
「お肉、持ってきてくれたんですか」
「そうです」
「おいしかったです。ありがとうございました」
深々と頭を下げられた。
どう返せばいいのか分からなかった。
「また持ってきます」
そう言うと、子供たちはまるでヒーローでも見るような、目を輝かせた顔で戻っていった。
俺がまた持ってくると思い放ったのは、西村さんへの納品が負債返済として最も効率よく機能しているからに過ぎない。
俺はただの精肉業者も同然なのだが、子供たちの夢を壊してまで、そんなドライな事情を説明する必要はなかった。
活気づいた食堂を後にして、俺は桐島さんのところへ向かった。
「明日の朝、ここを発ちます。お世話になりました」
桐島さんは箸を置いた。
「そうか。理由を聞いてもいいか」
「一人の方が気楽なので」
桐島さんはしばらく黙っていた。
引き止めようとする様子はない。
「また来い」
「ありがとうございます」
俺は言った。
桐島さんは何も返さなかった。
それでよかった。
夜の静寂が降りた頃、使っていない教室の隅に座り、ノートを開く。
課題を書き出す。
超大型スライムへの対処法——核直径一メートル超。
従来の左右誘導と核打撃では対処できない可能性がある。
有効な手段が現時点でゼロだ。これが最優先課題。あのタワマンに戻るためには、まずここを解決しなければならない。
新拠点の条件——開口部が少ない、電源がある、水が使える、複数階層で防衛線が引ける。
タワマンは全条件を満たしていた。同等の物件を探すのは簡単ではない。
物資の再調達——ノート一冊とボールペン二本とナイフ以外は全部タワマンに置いてきた。
装備がほぼゼロだ。
書き終えてノートを閉じる。
またゼロからか、とは思わなかった。
課題は山積みだが、動ける条件は前よりマシだ。
ぽこん。
すっ。
手だけが動いていた。




