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神様に投げつけられた地味なバグスキルを限界まで検証した俺だけ、荒廃した東京で今日も飯がうまい  作者:


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第24話

ぽこん、すっ。

壁に背をつけたまま、手だけが無意識に動いていた。

息が整うまでしばらくかかったが、夜の新宿は静かで、遠くで飛行型が旋回している羽音だけが低く続いている。

上半身が夜気に晒されており、走ったときの汗が冷えていく感触があった。

唯一着ていたシャツは、あの忌まわしいスライムと一緒にエントランスへ捨ててきた。


タワマンを振り返ると、四十五階だけが煌々と光っていた。

消し忘れたLEDランタンの光が、ビルの窓から無防備に漏れている。

あそこに全部ある。

米、缶詰、調味料、種、ガスボンベ、調理器具、寝袋、クマの毛皮、図書室から借りた本、リュック。

今日調達したばかりの、貴重なドリップコーヒー七個もだ。


「……全部置いてきた」

口に出すと少しだけ頭が整理されたが、喪失感で胸が押し潰されそうになる。

手元にあるのはノートだけだ。

このまま上半身裸で外で夜を明かす選択肢を三秒だけ検討したが、飛行型の視界に入れば終わりだし、気温も下がり続けている。

ビルの陰に張り付いていても凍えるだけなので、どこかへ移動するしかない。


ぽこん、すっ。

監視カメラで確認した周辺マップが頭の中に広がる。

三階のフィットネスジムから映像を確認したとき、周辺の建物を一通り記録しておいた。

タワマンから南へ二ブロック行ったところにある、公園沿いの多目的トイレだ。

あそこは確認済みで、単一出入口で内側から鍵がかけられるし、手洗い場が直結していて広さもある。


「行くしかないだろ、半裸なんだし」

飛行型の旋回域を頭の中で描きながら、建物の影を縫って走った。

素肌に夜風が当たるたびに背中がひりついたが、立ち止まる理由にはならなかった。

扉を引くとアンモニアと密閉された空気の匂いが混ざって出てきたため、思わず顔をしかめる。

内側から鍵をかけ、念のためキューブを扉の合わせ目に固定した。


ぽこん。

タイルの壁に気の抜けた音が返ってきた。

相変わらず緊張感のない音だが、これさえあれば今夜は物理的に安全だ。

蛍光灯のスイッチを押すと白い光がタイルに反射し、手洗い場の鏡に上半身裸の自分が映る。

鏡の中の顔は絶望しているかと思いきや思っていたより普通で、サバイバル慣れという習慣はおそろしいものだ。


蛇口をひねって背中に水をかけた。

ひんやりした水が皮膚を伝って少しだけほっとしたはずだったが、洗い続けるほど熱が引かず、むしろじわじわと広がっていく気がする。

水を止めて濡れた手で背中に触れてみると、皮膚の表面が内側から押されているような嫌な熱を持っていた。

水で流せば多少は楽になるはずだが、そうなっていない。


スライムの体液が背中に直接ついたのは分かっているが、洗っても熱が引かないという事実が想定していた結果と噛み合っていない。

これ以上やっても意味がなさそうだと判断して蛇口を閉めた。

原因の特定は後でいい。

今夜やることは、眠らずに夜明けを待つことだけだ。


壁に背をつけて床に座ると、タイルが思っていたより冷たかった。

ふかふかの寝袋も毛皮も、全部四十五階にある。

便器が視界の端に入り、またここに戻ってきたのかと乾いた笑いが出た。

「まあ、背中が痛くて眠る気も起きないしな」

ノートを開いて、失ったものを書き出す。


米、缶詰、調味料、種、カセットガスボンベ、調理器具、鍋、フライパン、三徳包丁、寝袋、クマの毛皮、LEDランタン、乾電池、自転車、図書室から借りた本。

書けば書くほど絶望的な量があり、「ドリップコーヒー七個」まで書いたところで、あまりの悲しさにペンが止まった。

「……嘆いても、ランタンの電池が切れるだけだな」


ぽこん、すっ。

消えたものは消えた。

手元にあるのはノートとキューブだけで、一話から何も変わっていないと言えば嘘になるが、手の中にあるものは結局これだけだ。

次のページへ移り、今後の方針を書き始めた。

拠点の再選定、物資の再調達、移動手段の確保。


書くべき項目は山ほどある。

タワマンをもう一度攻略するか別の場所を探すか、自転車は駐輪場に別の個体がまだあったはずだとか、ホームセンターの在庫は今日で大半を持ち出したがまだ残っている棚があったとか。

項目を並べていくうちに、パニックになっていた頭が少しずつ落ち着いてきた。

ノートに書いて散らかっていた思考を線にするという使い方が、いつの間にか染み付いていた。


ぽこん、すっ。ぽこん、すっ。

手が一定のリズムを刻みながら時間が過ぎていき、蛍光灯の白い光の下でノートのページが少しずつ埋まっていった。

夜明け前になると、背中の熱感がさっきより明確になっていた。

皮膚の表面ではなくもう少し深いところから来ている感じがして、じっとしていても汗が額に滲んでくる。


さっきまで冷たかったタイルの床が、今は逆にひんやりして気持ちいいくらいだった。

これはまずいかもしれないという考えが頭の端をかすめたが、まだ断定はできない。

朝になったら鏡で確認して見てから判断すればいいと自分に言い聞かせる。


ぽこん、すっ。

手はまだ動いている。

窓のないトイレの中で、夜明けはまだ来なかった。


夜明けの光が換気口から差し込んできたとき、俺はまだ壁に背をつけて座っていた。

眠れなかったわけではなく、意図的に眠らなかった。

問題は背中で、夜明け前より明らかに熱感が増しており汗が止まらない。

シャツがないせいで皮膚の状態が直接分かるのは、今に限っては好都合だった。


立ち上がって鏡の前に立ち、背中を見るために身体をひねると、腰から肩にかけての皮膚が視界に入った。

「……嘘だろ」

赤黒いかぶれが、思っていたより広範囲に広がっていた。

スライムが張り付いた場所を中心にそこから放射状に皮膚の色が変わっており、昨夜水で流した時点ではここまでひどくなかったはずだ。

じわじわと、眠っている間も進行していたらしい。


触れてみると、表面が熱を持っているだけでなく皮膚そのものが少し硬くなっている感触があった。

炎症だとは分かるが、この先どうなるのかが分からない。

このまま収まるのか悪化するのか、判断する材料が手元になかった。


ぽこん、すっ。

スライムの酸については、以前に調べた記憶がある。

浅層種の酸は致死性が低くせいぜい肌が荒れる程度だと読んだはずだが、あれはダンジョンの浅層の話だ。

崩壊後に街を這い回っているスライムが同じ種類かどうか、俺には分からない。

昨夜タワマンのリビングにいたあいつはダンジョンで見たものより一回り大きかったし、背中に張り付いた感触もあのときの比ではなかった。


同じ前提で考えるのは、たぶん間違いだ。

ノートを開いて、症状を書き始めた。

『被弾部位:背中全体。接触時刻:昨夜二十三時頃。初期症状:熱感・ひりつき。現在:赤黒いかぶれ、広範囲に拡大。皮膚の硬化あり。発熱・発汗継続中。水で洗浄済み、効果なし』

ペンを動かしながら、自分の字が少し乱れているのに気づいた。


利き手の問題ではなく、指先に余計な力が入っていないせいだと思う。

体温が上がると末端の感覚が鈍くなる、それくらいは知っている。

書き終えて、ペンを止めた。

「……QoLがどうとか言ってる場合じゃない。これ、普通に死ぬやつだ」


単独での回復は期待できない。

薬がなく清潔な環境もなく、俺には医療の知識もない。

だとすれば、選択肢は一つしか残らなかった。

中学校へ行く。


ぽこん、すっ。

プライバシー皆無、集団行動、粗末な配給食と、QoLが底辺まで落ちると思って避けていた場所だ。

考えただけで気が重くなる条件が全部揃っているが、生きていなければQoLもクソもない。

ノートの余白に一行だけ書き足した。

『判断:中学校へ。QoL完全敗北宣言。命には代えられない』


扉の鍵を開けて外へ出ると、朝の空気が素肌に当たった。

夜よりはましだが、発熱している身体には少し寒い。

頭の中で経路を組み立てる。

監視カメラの映像から記録した周辺の地図、魔物の出没ポイント、建物の入口位置。


中学校まで最短で行けるルートと、魔物との接触を避けられるルートは微妙にずれている。

今の状態で戦闘は絶対に避けたいので、遠回りになっても安全な側を選ぶ。

歩き始めると足元が思っていたより頼りなく、立ちくらみとまではいかないが視界の端がわずかに揺れる感じがある。

体温が上がっているせいだと思うが、分からないことは今は保留にして足を動かすことだけ考えた。


朝の街は静かだった。

以前この辺りを自転車で走ったときはまだ街に生活の残骸があったが、今は巨大な植物に覆われて別の場所みたいになっている。

足元に苔が広がりビルの壁面を蔦が這い上がっているが、魔物の気配はない。

聞こえるのは自分の足音と、少し荒くなってきた呼吸だけだった。


ぽこん、すっ。

手が動いている。それだけは変わらない。

中学校の外壁が視界に入ったとき、足が一瞬止まった。

視界が大きく揺れる立ちくらみが起き、反射的に近くのビルの壁に手をつく。

数秒そのままでいると少し収まったので、深呼吸をしてまた歩き始めた。もう少しだ。


校門の手前まで来たところで、人影が見えた。

自衛隊の装備をした人間が二人、門の内側に立っている。

こちらに気づいた一人が、目を丸くして駆け寄ってきた。

「おい、大丈夫か、あんた——」


声が遠くなっていく感じがした。

地面が唐突に傾いたのか、それとも俺が倒れたのか。

膝から力が抜けていき、誰かが腕を掴む感触がある。

「医療班! 早く!」

声がどんどん遠くなっていく。


視界がぼやける中で、校舎の方から誰かが走ってくるシルエットが見えた。

見覚えがあるという感覚だけが残って、それから何も分からなくなった。

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