第23話
朝。ノートに記した「明後日、出る」を実行に移す日だ。
ぽこん、すっ。
指先が空中でキューブを弄る——もう完全に無意識の癖になっていた。
二階の駐輪場へ降りる。荷台付きの頑丈なシティサイクルを選び、タイヤの圧を指で押して確認する。問題なかった。愛用の金属バットをフレームに固定して、静かにタワマンを出発した。
駅前のコンビニとスーパーを回ったが、結果は予想通りだった。コンビニは棚が全部空で、床には踏み荒らされたパッケージだけが残っている。スーパーに至っては、強烈な腐敗臭が漂う地獄絵図だった。
「ダメもとだが、やはりダメだったか」
予想はしていたが、実際に見ると少し嫌な気分になる。空の棚というのは、分かっていても見ると気が滅入る。
ノートを取り出し、事実だけを書き込む。
『コンビニ・スーパー:略奪済み。予想通り』
ペダルを漕ぎ、数日前に攻略したホームセンターへ向かう。
入口を塞いでいたオーク三体は、すでに処理済みだ。店内に入ると、奥のエリアの物資は手付かずのまま残っていた。
「……俺が倒したせいで、誰でも入れるようになったな」
少し考えたが、今更だ。
棚を順番に回っていく。
まずは食料コーナー。缶詰が大量に残っていた。トマト、豆、魚、果物——野菜は生のものはないが種類は揃っている。米が数袋と、パスタなどの乾麺類も残っていた。
「缶詰か。腐らないからいいか」
次に調味料コーナー。醤油、みりん、砂糖、油、塩、酢。生活の質を保つために必要なものが全部揃っている。
農業コーナーでは、種の袋が棚に残っていた。トマト、キュウリ、ほうれん草、小松菜。土は重すぎて運べないが、種だけなら軽い。農業をやるつもりになっているのか俺は、という気持ちはあるが、持っておいて損はない。全種類を確保する。
「土の問題はまだ解決していないが、種だけは持っておく」
カセットガスボンベを箱ごと確保し、工具コーナーで板材と釘を見つける。窓に板を打ち付けるつもりで資材を漁っている大学生というのは、崩壊前なら完全に不審者だが、今は正解だ。荷台に積んだ。
ぽこん、すっ。
荷台が物資で山積みになる。自転車は重いが、息は上がらない。以前なら駐輪場から出る前に音を上げていた重さだ。
「……我ながら、何者になったんだ」
帰路。道中でゴブリン二体と遭遇した。
足元にキューブを展開して転倒させ、作業的に処理する。戦闘よりも、荷台が揺れて物資をこぼしそうになる方がよっぽど焦った。
タワマンに帰還してエレベーターで四十五階へ上がり、調達した大量の物資を広大なシステムキッチンに並べる。
「揃った」
ぽこん、すっ。
夕食の準備にとりかかる。
ワイバーンの肉を細かく刻んでフライパンで炒め、そこへトマト缶を投入する。塩と油で味を調えた。
「ミートソースだ」
茹でたパスタにソースをかけ、フォークで口に運ぶ。
「……うまい」
二日間の、肉と塩だけの生活が終わった。野菜の酸味が、思っていたより体に染みた。
ぽこん、すっ。
「しばらくは食える」
ノートに書き込む。
『食料問題:当面解決。種の確保完了。土の問題は未解決。窓の恒久対策:明日着手予定』
荷物を整理し、サバイバルリュックはリビングのソファの横に置く。
寝室へ向かう。扉を閉め、内側からキューブを固定してロックした。物理的な侵入は不可能だ。
こんな状況でこんなに快適に眠れるのは、たぶんおかしい。だが眠れるなら眠った方がいい。満たされた腹でベッドに横たわり、俺は眠りについた。
凄まじい破砕音で目が覚めた。
ぽこん、すっ。
完全に無意識に、手が動いている。
暗い。寝室のドアはキューブで固定してある——異常はない。
でも、リビングの方から音が続いている。
ガラスが砕ける音。
何かが床を這う、粘ついた音。
複数の、重い羽音。
静かに起き上がり、枕元のノートを手に取る。
寝室のドアからキューブを解除し、隙間からリビングを覗く。
バルコニー側の大窓が、完全に粉砕されていた。
そこから鳥型が次々と侵入している。三体、四体。羽を折り畳みながら室内へ降り立ち、鋭い爪でフローリングを引っ掻く音が響く。まだ来る。
そして。
床に、スライムがいた。
直径一メートルを超えるだろう核が鈍い光を放ちながら蠢いている——これまで見たことのない大きさだ。その周囲に小型のスライムが複数、床を這いながらじわじわと広がっている。
いつから。
どこから。
分からない。
「……なんで、スライムが」
今は関係ない。
飛行型、複数。バルコニーから侵入中。得意な相手だ。
スライム、複数。リビングを占拠中。起源不明。天敵だ。
キューブは三個。止まっている相手には無力。飛行型を相手にしながらスライムを避けて動く余裕はない。
リュックも今日調達した物資も、全部スライムの向こう側だ。
「……詰んだ」
しばらく、動けなかった。
リビングを通らず廊下へ出て、玄関へ一直線だ。
玄関ドアを開けて共用廊下へ出て、エレベーターのボタンを押す。
待つ。
ガラスが割れる音と、何かが倒れる重い音がリビングの方から続いている。キッチンに並べたばかりの物資が頭をよぎる。
早く来い。
ポーン。
ドアが開く。
乗り込む。
2のボタンを押す。
駐輪場の扉が開くと、薄暗い空間に荷台付きの自転車が昨日と同じ場所に止めてあった。
キューブの角をシリンダー部分に当てて固定し、自転車のフレームを掴んで力任せに引くが、金属が軋む音がするだけで外れない。
角度を変える。
もう一度引く。
びくともしない。
「くそ、固い」
全体重を乗せて引く。
そのとき。
背後でエレベーターのドアが開く音がした。
廊下の奥に、気配がある。飛行型ではない。地上型だ。
薄暗がりの中、オークが一体、こちらを見ている。錆びた剣をだらりと下げたまま、ゆっくりと距離を詰めてくる。
自転車を見る。
鍵を見る。
オークを見る。
「置いていく」
自転車から手を離して駆け出す。非常階段のドアを肩で弾き飛ばして、階段を一気に駆け下りる。背後からオークの重い足音が追ってくる。
一階のエントランスへ飛び出す。
また湧いている。
ゴブリンが二体、オークが一体。
止まらない。走りながらキューブを展開する。向かってくるゴブリンの足元に固定、転倒。もう一体は横からバットを叩き込む。オークの踏み込む足元にキューブを差し込んで転倒させ、胸の上を固定する。
抜ける。
そのとき。
背中に、何かが張り付いた。
重い。
冷たい。
一瞬後、焼けるような熱が背中を走った。
「っ……」
振り返れない。走りながら肩越しに確認すると、ジュウウウッという音がしてシャツが溶けていた。
スライムだ。いつの間にここまで広がっていたのか。
考える時間はない。
シャツの裾を掴む。キューブをスライムの真後ろに固定する。スライムごと、シャツを引き剥がすように脱ぎ捨てる。
床に落ちたスライムが、シャツを溶かし続けている。
ガラスドアを肩で突き破り、外へ転がり出た。夜の空気が、上半身の素肌に叩きつけた。
自転車はない。
シャツは一枚失った。
走るしかない。
見上げると、上空で飛行型が複数、旋回している。縄張りを主張するように、低く鳴いている。
飛行型の視界に入らないよう、足音を殺しながら建物の影を縫って走る。
どこかのビルの陰に滑り込み、壁に背をつけて息を整える。
「……全部置いてきた」
振り返ると。タワマンの四十五階だけが、夜の新宿に光っていた。消し忘れたLEDランタンの光の中に、全部がある。
今日調達した米。
缶詰。
調味料。
種。
ガスボンベ。
寝袋。
調理器具。
図書室から借りた本。
リュック。
息が整う。手の中にノートがある——それだけだ。
城もない。
物資もない。
自転車もない。
上半身裸で、夜の新宿に立っている。
ぽこん、すっ。
「……また、ゼロからか」
答えは分からない。ただ、手は動いている。タワマンの光が、遠くで揺れていた。




