第22話
視界の隅で「ぽこん、すっ」と小さな音が鳴って目覚めると、頭が完全に覚醒するより先に、右手が空中でキューブを出し入れしていた。
右手の指先が、無意識に出現させたキューブの硬質な角を弄って感触を確かめている。
三日目の朝だ。
もうこの変な手癖が完全に日常になっている。
ベッドを出て、キッチンで湯を沸かしコーヒーを淹れる。
前の住人が残していったドリップパックで、残り何個あるかは昨日数えて把握しており、あと七個だ。
マグカップを片手にバルコニーに出る。
眼下に広がる朝の新宿を見下ろしながら熱いコーヒーを一口飲むのが、すっかり今の朝のルーティンになっている。
ふと手すりに視線を落とすと、昨日まではなかったはずの深い傷跡が刻まれていた。
マグカップを置いてしゃがみ込み、深さや幅、角度を確認すると、あの鳥型の魔物の爪の形状と完全に一致している。
「……マジかよ、夜中に来てたのか」
見上げると、割れたままの分厚い窓枠があった。
三日前、俺がペントハウスに侵入するために叩き割ったあの窓だ。
キューブで塞ぐことが頭をよぎるが、すぐにその考えを打ち消した。
「ここを塞いでも、隣のガラスを割られれば終わりだ」
俺の出せるキューブの最大サイズは二十五センチ。
たった三個の手持ちで、巨大な窓ガラス全体を覆う物理的な盾を作ることは不可能だ。
ペントハウスの開口部を数えて回る。
バルコニー側の大窓、寝室の窓、リビングの窓、キッチンの小窓。
これらすべてをキューブで防衛するのは物理的にどう考えても不可能だ。
応急処置として、就寝中は寝室のドアを内側からキューブで完全固定することにした。
窓からペントハウス内に侵入されても、寝室の扉だけは絶対に破らせない。
昼間の接近を警戒して三階の管理人室へいちいち監視カメラを見に行くのは現実的ではないし、起きている間なら、最悪ガラスを破られて侵入されても自力で迎撃できる。
問題は無防備になる睡眠中だけだ。
完全な解決ではないが、今できる最善だ。
ノートに書き込む。
『暫定対策:就寝中は寝室ドアを内側からキューブ固定。昼間の侵入は自力で迎撃。窓自体の恒久対策は要検討』
ぽこん。
試しに寝室のドアと床の隙間にキューブを展開し、空間に固定する。
扉は岩のようにビクともしなくなった。
「これで夜は寝首を掻かれずに済む。少しだけだが」
朝食を作ろうとして大型冷蔵庫を開ける。
ドアポケットの卵が残り三個になっていることに気づいた。
「……嘘だろ、もうこれだけかよ」
そこから、全食料の棚卸しを始めた。
冷蔵庫の中身、戸棚のストック、リュックの備蓄。
手持ちの食料をすべてダイニングテーブルの上に並べていく。
ぽこん。
すっ。
ぽこん。
すっ。
並べながら、左手の傍らでキューブが明滅している。
目の前に並んだ物資を見る。
ワイバーンの肉は大量にある。
魔物の肉は常温でも腐敗しないというバグみたいな仕様のおかげで、これだけは問題ない。
卵、残り三個。
米、ペットボトルに残り一キロ程度。
玉ねぎ、残り一個。
醤油、ボトルの半分。
みりん、残り少ない。
砂糖、残り少ない。
塩、比較的ある。
油、残り少ない。
前の住人のドリップコーヒー、残り七個。
ノートに書き込みながら計算する。
米があと五日分。
卵は今日で終わる。
野菜は今日で終わる。
調味料は十日程度。
「……思ったより限界が近いぞ、俺の文明生活」
ノートに事実を書き込む。
『食料残量:米5日・卵本日終了・野菜本日終了・調味料10日程度・肉は補充可能。外出の必要性:激高。目標3日以内に実行』
テーブルの上に並んだ食材を眺める。
この中で今日中に使い切らなければならないのは、卵三個と玉ねぎ一個だ。
「……使い道は一択だな」
ワイバーンの肉を一口大に切り分け、玉ねぎを薄切りにする。
小鍋に水と醤油、みりん、それに残り少ない砂糖を合わせて火にかけた。
玉ねぎが透き通ってきたところで、ワイバーンの肉を投入する。
出汁が肉に染み込んでいく音がした。
ボウルで溶いた卵を端から静かに回し入れ、蓋をし、十秒数えて火を止めた。
炊飯器のスイッチを入れると「炊飯中」と表示が出た。
炊き上がった白米をどんぶりに盛り、その上に卵でとじたワイバーン肉を滑らせるように乗せる。
黄金色の半熟の卵とじが、白米の上に静かに広がった。
「……当面は最後の親子丼だ」
箸を入れ、一口食べる。
甘辛い割下がワイバーン特有の濃厚な肉に染み込み、とろりとした半熟卵がすべてをまとめ、熱い白米がそれを受け止める。
「うまっ……!」
ぽこん。
すっ。
食べながらも、空中にキューブが出現しては消えている。
これが尽きたら、また肉と塩だけの世界が戻ってくるのだ。
高台の公衆トイレで塩だけを振って獣の肉を焼いていたあの頃の味を思い出すと、うまかったが何かが決定的に足りないひもじい感覚が蘇る。
「……塩肉生活への回帰だけは絶対に阻止する。外に出るしかない」
食後、ノートを開く。
何を調達するか。
米、野菜、調味料。
できれば種も欲しい。
自分で育てられれば、危険を冒して外に出る頻度を減らせる。
どこへ行くか。
コンビニとスーパーはすでに略奪済みの可能性が高いので、住宅地の台所が一番確率が高い。
ホームセンターなら種と農具が手に入るかもしれない。
ぽこん。
すっ。
昨日目視した、中学校方向の旗が頭の片隅に浮かんだ。
あそこはおそらく避難所で、行けばまとまった食料があるかもしれない。
一瞬だけ考えたが、即座に却下した。
「プライバシーなしの配給生活なんて、QoLが底辺まで落ちる。却下だ」
自力調達の方向で計画を組む。
移動手段は自転車だ。
二階の駐輪場に状態の良いものが残っていたので、荷台付きを選べば積載量が増える。
危険度の想定。
道中の陸上魔物は転倒固定戦術で対処可能だ。
飛行型が問題だが、常に屋内に逃げ込める場所を事前に確認しながら動くしかない。
出発は明後日。
明日は準備と、三階の監視カメラで周辺の魔物密度を確認する時間に充てる。
ノートに書き込む。
『外出計画:食料調達優先。米・野菜・調味料・種。移動手段:2階の荷台付き自転車。出発:明後日。事前に監視カメラで周辺確認』
夕食にワイバーンの肉を塩だけで焼いて食べてみたが、うまい反面、やっぱり何かが決定的に足りない。
「……もう身体が文明の味を覚えちまってるんだよな」
あのときは山の公衆トイレだったが、今は四十五階のタワマンだ。
場所は最高なのに、飯の完成度だけが落ちている。
ぽこん。
すっ。
ノートを閉じる。
城の穴として「窓の封鎖」と「食料の補充」という二つの課題が見つかり、どちらも未解決とはいえ現状の把握はできた。
把握したなら、あとは動いて物資をかき集めるだけだ。
「明後日、買い出しに出る」




