第20話
目覚めると、視界の抜けるような高い天井があった。
背中を包み込むシーツは、これまで寝床にしてきた公衆トイレのヒグマの毛皮や冬用寝袋とは比べ物にならないほど滑らかで柔らかい。
一瞬、自分がどこにいるのか分からず、ぼんやりと瞬きを繰り返した。
ぽこん。
すっ。
視界の隅で小さな音が鳴る。
俺の右手が、頭より先に動いていた。
宙の空間に一辺5センチの小さなキューブを固定し、それを指先でなぞるように触れては、すぐに消す。
たぶん、深い眠りに落ちている夢の中でも、俺は無意識にこの動作を繰り返していたのだろう。
「……ボールペンのカチカチ感覚で、絶対固定の罠をもてあそぶようになっちまったな」
指先に残る硬質な感覚で完全に意識が覚醒し、昨日の死闘の記憶が蘇ってくる。
「……ああ、そうだ。俺、タワマン乗っ取ったんだ」
ゆっくりと上体を起こし、俺は「自分の城」となった45階のペントハウスの探索を始めた。
広大な間取りを一部屋ずつ回っていく。
主寝室、大理石張りのバスルーム、清潔なトイレ、そして見晴らしの良い広大なリビングとシステムキッチン。
部屋の随所に、前の住人が暮らしていた日常の気配が色濃く残されていた。
壁に飾られた趣味の良い抽象画や、リビングのテーブルに置かれたままの読みかけのビジネス書。
つい数日前まで、間違いなくここに人が住んでいたのだ。
俺はリュックからノートを取り出し、今後の生活に必要な設備リストを作り始めた。
ぽこん。
すっ。
ぽこん。
すっ。
間取りを書き込みながら、ペンを持っていない左手が無意識に空中でキューブを出し入れしている。
手持ち無沙汰の変な癖がついてしまった。
キッチンの設備を確認する。
3口のIHヒーター、ビルトインの大型オーブン、そして業務用に近い観音開きの大型冷蔵庫。
恐る恐る冷蔵庫の扉を開けると内部のLEDライトが明るく点灯し、冷たい空気が顔を撫でた。
バルコニーの専用ソーラーパネルと蓄電池のおかげで、中身は完全に無事だ。
各種調味料、卵パック、少ししなびた野菜類、そしてドアポケットには、よく冷えた缶ビールが3本並んでいる。
「……いただいていいのか、これ」
持ち主がもう帰ってこない可能性は高いが、さすがに一瞬だけ躊躇した俺は、ポケットの財布から千円札を一枚取り出し、冷蔵庫の扉にマグネットで挟んで留めた。
「代金です。ルームサービス代わりにごちそうになります」
誰もいない静かなキッチンでそう呟き、今夜の楽しみに思いを馳せながら静かに冷蔵庫を閉める。
拠点の確認を終えた俺は、稼働している非常用エレベーターに乗り込み、一つ下の44階へ降りてみた。
窓のない内廊下に、重厚な扉が等間隔に並んでいる。
パニックの際に慌てて飛び出したのか、いくつかの荷物が挟まってストッパー代わりになり、ドアが半開きのままになっている部屋があった。
隙間から中を覗くと、手付かずの食料や日用品が見える。
手を伸ばせば、いくらでも物資をかき集められる状態だった。
だが、俺はドアノブに伸ばしかけた手をゆっくりと下ろした。
「誰かが帰ってくる場所だ」
数日前、山を降りて最初に見つけた一軒家のキッチンで、千円札を置いてきた時と同じ感覚だった。
俺にはすでにペントハウスという最高の城がある。
生きるための物資は十分にあるし、まだ他人の生活圏を荒らしてまでトイレットペーパーを奪うような切羽詰まった状況じゃない。
俺はそれ以上他の部屋を覗くことをやめ、再びエレベーターに乗って45階へと戻った。
動くカゴの中では、決してあのキューブの出し入れ遊びはしない。
空間に絶対固定されるキューブを上昇中の密室で出せば、カゴの床をぶち破って自分が串刺しになる大惨事を引き起こすからだ。
到着を知らせる電子音が鳴り、ドアが開く。
ペントハウスの静かな廊下に足を踏み出した瞬間。
ぽこん。
すっ。
俺の左手は、待ちわびたように無意識のルーティンを再開していた。
リビングの窓を開け、広大なバルコニーに出る。
眼下に広がる朝の東京は、不気味なほど静かだった。
道路を埋め尽くす車は完全に停止し、無数のビルの窓に人の気配はない。
アスファルトを突き破って異常成長した巨大な植物が、都市のあちこちを緑の斑模様に侵食している。
街全体が、呼吸を止めているように見えた。
だが、一点だけ違う場所があった。
東の方角、遠く離れたビルの合間で、赤と青の光が何度も弾けている。
スキルだ。
距離があっても分かる規模の戦闘が行われている。
俺は手すりに寄りかかり、その明滅をただ見つめていた。
やがて顔を上げ、ノートに事実だけを書き込む。
『東方向・直線距離推定8km・魔法的スキルの使用複数確認』
それだけ書いて、ノートを閉じた。
「……ヒーローはそっちの人たちに任せよう。俺の今の最優先ミッションは、あのでかい鳥を美味く揚げることだ」
生存戦略として関わらないのが一番だと言い訳しつつ、俺は部屋を出た。
一階のエントランスを安全な出入り口として確保するため、俺はまずエレベーターで二階まで降り、そこから非常階段を使って一階の裏手へと回った。
エレベーターで直接一階へ降りて、ドアが開いた瞬間に群れに囲まれるリスクを避けるためだ。
一階に到着し、ガラス越しにロビーの内部を観察する。
オークとゴブリン、合わせて9体。
屋内であり、狭いエントランス通路という一方向からしか接敵しない地形だ。
「条件は最高だな。さあ、タワマンの害虫駆除の始まりだ」
少しだけ扉を開け、群れの注意を引いてから迎え撃つ。
足元にキューブを置いて転倒を誘発し、地面に倒れ込んだ瞬間に胸の上に板状キューブを固定する。
自らの起き上がろうとする力で肋骨を砕き、自滅していく魔物たち。
次。
次。
次。
「……完全にタワマンの清掃員(物理)だな、俺」
息一つ上がらず、ただのベルトコンベア作業になっていた。
9つの魔石を回収し、静まり返ったエレベーターホールへ向かう。
壁のボタンを押す。
ポーン、という軽快な音と共に、ドアがスムーズに開いた。
昨日、20キロの荷物を背負って巨大鳥と命懸けで戦いながら外壁を登った地獄の苦労が脳裏をよぎる。
「……何度乗っても、昨日の俺の冷や汗を返せって気分になるな」
俺は虚無の顔でカゴに乗り込み、45階のボタンを押した。
ペントハウスのキッチンに戻った俺は、巨大な肉の塊と対峙していた。
屋上で仕留めた、あの飛行機サイズの怪鳥のドロップ品だ。
どう見ても業務用サイズを凌駕する、非常識な大きさの鶏肉だった。
ノートを開く。
『産地:新宿区・空中。サイズ:非常識。材質:謎の巨大鳥』
便宜上、ワイバーン肉とでも呼んでおくことにする。
新品の三徳包丁で一口大に切り分け、ボウルに入れた。
冷蔵庫から拝借した醤油、酒、おろした生姜を揉み込み、しばらく置いてから片栗粉をまぶす。
アウトドア用の深い鍋に油を注ぎ、高級IHヒーターにかける。
パン粉を落として温度を確認した。
160度。まずはここだ。
肉を静かに油へ落とす。
ジュワァァァッ、という暴力的なまでに食欲をそそる音が、静寂のペントハウスに満ちた。
3分ほど揚げて一度引き上げ、余熱で中までじっくり火を通す。
その間に油の温度を180度まで一気に引き上げた。
そして、二度揚げだ。
高温の油に再び肉を投じると、パチパチと弾けるような音が鳴る。
表面が完璧なきつね色に色づいた瞬間に引き上げ、油を切った。
急いで冷蔵庫に向かい、冷えた缶ビールを一本抜き取る。
プルタブを引き、黄金色の唐揚げを一つ口に放り込んだ。
二度揚げによって極限までサクッと仕上がった衣を破ると、未知の肉から信じられないほどジューシーな肉汁が溢れ出す。
普通の鶏肉より遥かに濃厚で、弾力がある。
すかさず、冷たいビールを喉に流し込んだ。
「……っはぁぁぁ!」
圧倒的な幸福感が脳を麻痺させる。控えめに言って最高だ。
ぽこん。
すっ。
口の中の余韻を噛み締めながら、空いた左手で無意識にキューブを弾く。
ペンを執り、ノートに追記した。
『ワイバーン肉:唐揚げ適性◎。160度で3分、余熱後、180度で二度揚げ。再現性確認済み。ビールとの相性、致死レベル』
満腹になった夜、俺は再びバルコニーに出た。
タワマン最上階からの、新宿の夜景。
真っ暗だった。
電気が通っていないのだから当然だ。
街全体が死んでおり、かつて眼下を埋め尽くしていたはずの煌めくような無数の光は一つも存在しない。
「……百万ドルの夜景、今の価値はゼロ円か」
事実として受け入れるしかないが、少しだけ損した気分だ。
ふと視線を上げる。
地上の光がすべて消え去った分、夜空には数え切れないほどの星がはっきりと見えた。
ぽこん。
すっ。
手の中でキューブが消える。
「まあいい。明日はこの広すぎる高級バスルームを限界まで堪能してやる」
絶景より目先のQoLを優先することに決め、俺は静かにバルコニーを後にした。




