第19話
5月25日の朝、バリアフリートイレで目覚めた俺は、カセットコンロで温めたレトルト食品を腹に詰め込んだ。
荷台コンテナ付きの新しい自転車に跨る。
目指すのは、ここから1時間ほどの距離にある超高層ビル群、新宿エリアだ。
道中、はぐれ魔物と何度か遭遇した。
だが、すでに確立した「転倒固定戦術」の前に敵ではない。
向かってくるゴブリンやオークの足元にキューブを展開して転倒させ、すかさず胸の上を固定して自らの力で圧死させる。
作業のように魔石を回収しながら、ペダルを一定のペースで回し続けた。
その過程で、自分の身体に起きている明らかな異常に気がついた。
前かごと荷台に大量の物資を積み込んだ重い自転車を漕ぎ、幾度となく魔物を仕留めているというのに、まったく息が上がらないのだ。
スキルの成長が影響しているのか、魔石を吸収した未知の恩恵か。
「……俺、いつからオリンピック選手並みの体力になったんだ? ちょっと怖いんだけど」
戸惑いながらも、今の俺のスタミナと筋力は明らかに人間の限界を突破し始めているようだった。
新宿が近づくにつれて、街の荒廃はより濃く生々しくなっていく。
人口密度が高かった分だけ被害の規模も大きい。
放置された無数の車両や散乱した荷物が道を塞ぎ、かつてのメガロポリスが完全に機能停止していることを否応なく実感させられる。
障害物を縫うように進み、俺はついに目的の場所にたどり着いた。
首が痛くなるほど見上げた先にあるのは、45階建ての超高級タワーマンションだった。
外観に目立った損傷はない。
だが、1階のガラス張りになった広大なエントランスを遠目から覗き込むと、薄暗いロビーの中に10体近いオークやゴブリンが徘徊しているのが見えた。
いくら俺の体力が向上していても、あの数の群れを相手にしながら中から階段で登り切るのは自殺行為だ。
俺は地下駐車場の死角に自転車を隠し、今後のプランを練った。
ただ魔物が上がってこられない安全な高所を確保するだけなら、2階か3階の外壁を登ってベランダから侵入すれば事足りる。
だが、一度見上げてしまった俺の脳内に、ある強烈な誘惑がこびりついて離れなかった。
『新宿のタワマン最上階、ペントハウス』。
田舎から上京してきた俺にとって、一生懸命働いたところで到底手が届かないはずの、絶対的な夢の結晶。
それが今、ほんの少しの苦労と危険を冒すだけで、無料で自分の城になるのだ。
「……行くしかないだろ。男のロマンだ」
アホな覚悟を決めた俺は、ホームセンターで手に入れた巨大な登山用バックパックを開いた。
外壁を登るなら身軽であることは命を繋ぐための絶対条件だ。
しかし、カセットコンロ、予備のガスボンベ、鍋、そしてふかふかの冬用寝袋といったQoL向上アイテムを置いていくという選択肢は俺にはない。
結果として、無理やりすべての物資を詰め込んだバックパックは、総重量20キロを超える狂気の重装備となってしまった。
建物の裏手、周囲から死角になる外壁の前に立つ。
足元に1つ目のキューブを壁に張り付くように展開して足を乗せた。
続けて2つ目、3つ目と階段状に展開して身体を持ち上げ、一番下のキューブを消しては一番上に新しいキューブを出す。
先入れ先出しの法則を利用し、空中に見えない階段を作りながら垂直の壁をよじ登り始めた。
最初は順調だった。
異常に向上した身体能力のおかげで、足腰の筋肉は悲鳴を上げない。
だが、純粋に45階という距離は長すぎた。
20階を超えた辺りから、遮るもののない強烈なビル風が容赦なく吹き荒れ始めた。
それに加えて、背負った呪いの重装備が重力に引かれ、俺の身体を背後へと乱暴に揺さぶってくる。
鍋やカセットコンロと一緒に壁に張り付いている俺の姿は、客観的に見たらただの変質者だ。
恐る恐る視線を下に向けると、放置された車がまるでおもちゃのように小さく見えた。
落ちれば肉塊すら残らないというリアルな恐怖に、全身の毛穴から冷や汗が吹き出す。
「なんで俺、おとなしく下でオークと戦わなかったんだ……!」
激しく後悔しながらも、見下ろすな、壁だけを見ろと自分に言い聞かせる。
奥歯を噛み締め、さらに高度を上げて30階付近に差し掛かった時だった。
上空から、空気を切り裂くような鋭い風切り音が響いた。
カラスを巨大化させた鳥型の魔物だ。
そいつが壁にへばりつく俺を格好の獲物と認識したのか、鋭い爪を真っ直ぐに向けて急降下してくる。
手持ちのキューブは同時に3個まで。
今の俺は両足の足場として2つを使用中で、自由に使えるのは残り1つしかない。
「くそっ、こんな時に!」
俺は右足で踏みしめているキューブに全体重を預け、空いた右手でサバイバルナイフを逆手に構えた。
そして猛スピードで突っ込んでくる鳥型の軌道上を睨みつけ、最後のキューブを板状に引き延ばして空中に固定する。
ズバッ!!
風圧を伴った嫌な破裂音が鳴り響いた。
見えない刃に激突した鳥型は自らの速度で右翼を根元から切断され、無様な悲鳴を上げながら遥か下空へと墜落していく。
迎撃には成功したが、無理な姿勢のせいで背中の重荷に振られ、大きくバランスを崩しかけた。
慌てて壁の目地に指を食い込ませて身体を支え、限界まで高まった緊張感に荒い息を吐き出す。
「……マジで、死ぬかと思った……」
額から流れ落ちる冷や汗を拭う余裕すらない。
俺は再び、頭上の遥か彼方にある屋上を目指して重い足を持ち上げた。
長すぎる死闘の末、俺の指はようやく45階の屋上の縁を捉えた。
軋む両腕に最後の力を振り絞って身体を引き上げ、コンクリートの上に転がり込む。
大の字に寝転がって荒い息を吐き出し、ようやく生還を果たした安堵に浸ろうとしたその瞬間だった。
突如として、視界を覆うほどの巨大な影が俺の上に差した。
ビル風とは明らかに異質な、暴力的な突風が屋上を吹き抜ける。
上空を見上げた俺は、絶望で全身の血の気が引いた。
高台から見た、あの飛行機サイズに匹敵する巨大鳥だ。
そいつが屋上に寝転がる俺を美味そうなエサとして見下ろしているように見えた。
ペントハウスという夢に目が眩み、この空域を支配する絶対的な脅威の存在を完全に忘れていたのだ。
逃げ場などどこにもない。
巨大な怪鳥が俺を丸呑みにしようと、凄まじい風圧を伴って一直線に急降下してくる。
だが、ここで竦んでいれば確実に死ぬ。
俺は重いバックパックを背負ったまま立ち上がり、恐怖で震える両足を踏みしめた。
「デカかろうが関係ない。俺のキューブは絶対に動かないんだよ……!」
迫り来る巨大な嘴。
その奥にある、人間の頭ほどもある眼球を真っ直ぐに見据える。
衝突のほんの一瞬前。
俺は巨大鳥の眼球が通過する空間に、最大サイズの25センチのキューブを「角」を向けて完全固定した。
そして、背中の重さに振り回されながら、無様に真横へと飛び退く。
ズドォォォォンッ!!
落雷のような轟音が屋上に響き渡る。
自らの尋常ではない質量と急降下の速度がそのまま凶器となり、巨大鳥は見えない鋼鉄の角に眼球から脳髄の奥深くまですり潰されるように激突した。
だが、デカすぎて死んでもすぐには止まらない。
凄まじい勢いで屋上のコンクリートを抉りながら、俺が先ほどまで立っていた場所を巨大な肉の塊が猛スピードで通り過ぎていく。
「嘘だろ、滑ってくるな……っ!」
全身を強烈な突風が叩きつけた直後、巨体は断末魔を上げる間もなく、一瞬にして大量の光の粒となって弾け飛んだ。
風に舞う光の残滓の真ん中に、ソフトボールほどの大きさがある特大の魔石と、業務用サイズの巨大な鶏肉の塊がゴトリと転がる。
「……助かった……」
全身の震えを必死に抑え込みながら魔石と肉を回収し、俺は屋上の縁からすぐ下にあるペントハウスの広いバルコニーへと飛び降りた。
そこには、大型のソーラーパネルと蓄電池ユニットがずらりと並んでいた。
ペントハウスならではの特別設備というやつだろう。
俺はリュックからアルミバットを引き抜くと、鍵の周辺の分厚いガラスを全力で叩き割った。
腕を突っ込んで鍵を開け、中へ侵入する。
そこには住人が避難した後の、静寂に包まれた広大な高級マンションの一室が広がっていた。
恐る恐る、壁の照明スイッチを押してみる。
パァン、と明るい光がリビングを照らし出した。
バルコニーの専用電源のおかげで、この部屋の電気は生きている。
俺は背中の重いバックパックを床に下ろし、ついに手に入れた天空の城の文明に歓喜の声を漏らした。
部屋の安全を確保した俺は、念のため周囲の状況を確認しようと、玄関の重厚なドアを開けて外の共用廊下へと足を踏み出した。
窓のない内廊下には、非常用の照明が煌々と点灯している。
そして俺は、目の前にあるエレベーターの操作パネルが、かすかに光を放っていることに気がついた。
まさかと思いながら、震える指で「下」のボタンを押してみる。
「……ポーン」
静まり返った廊下に軽快な電子音が響き、非常用エレベーターの重厚なドアがスムーズに開いた。
煌々と光るエレベーターのカゴの中を見て、俺の思考が数秒フリーズする。
……動くのかよ。
バルコニーのソーラーパネルとは別だ。
マンション自体の非常用電源が生きているんだ。
停電時に各部屋のエアコンではなく、このエレベーターや給水ポンプを優先して動かすために繋がっているのだろう。
ということは。
1階のエントランスにいた魔物たちを転倒固定戦術で片付けさえすれば。
あとはボタンを1つ押すだけで、安全に、1滴の汗を流すこともなく、この45階まで直行できたということだ。
鳥型の襲撃に怯え、巨大鳥の突進に死を覚悟し、カセットコンロなんかを詰め込んだ呪いの装備を背負って垂直の壁をよじ登ったあの地獄の苦労は、一体何だったのか。
俺は開いたままのエレベーターの箱を前にして、ゆっくりと膝から崩れ落ちた。
「……俺のあの決死の覚悟と冷や汗を返せよ……っ!」
滲んでくる涙を拭いもせず、誰もいない高級タワマンの廊下で、俺は自分のアホさを呪うしかなかった。




