第14話
5月17日の朝、草むらが大きく揺れた。
風じゃない。何かがいる。
ベンチから立ち上がって音の方を向いた瞬間、草を割ってイノシシ型の魔物が飛び出してきた。
ダンジョンで見たレッサーラビットより一回りも大きく、四本足の蹄で異様に重い音を立てて草を踏み潰してくる。
前に突き出た牙と、赤い目が俺を捉えていた。
ダンジョンの外に、魔物がいる。
頭では理解していたはずの「世界が崩壊した」という現実が、暴力的な質量を伴って目の前に突きつけられた瞬間だった。
非日常が日常を完全に食い破った光景に、心臓が嫌な音を立てて大きく跳ねる。
背中を冷たい汗が流れ落ち、無意識にバットを握る手にじわりと力が入った。
「でかっ……ってか、マジで外に出たのかよ」
引きつった声が出た。
距離が詰まるのが速い。
ラビットのような軽さではなく、圧倒的な質量ごと突っ込んでくるため、地面が揺れているように錯覚する。
だが、軌道は読める。一直線だ。
俺はパニックになりそうな頭を必死に回して相手の眉間の高さを測り、進路上の空間に意識を集中させる。
5センチまで縮小した極小のキューブ。
さらに、面ではなく「角」を真正面に向けて固定する。
突進の凄まじい速度と重量が、5センチの角の一点にすべて乗った。
鈍い破裂音がしてイノシシの頭部が止まったが、正確には固定されたキューブに激突して一方的に潰れただけだ。
どさりと倒れ、そのまま光の粒になって消えていく。
俺はその場に立ち尽くした。
速い。
倒すまでの時間より、何が起きたのかを把握する時間の方が長かったくらいだ。
「……瞬殺か」
ラビットとは威力の次元が違いすぎる。
あいつはキューブに当たって跳ね返ったが、こいつは頭部が止まった後も後ろ脚だけが空転し、それから崩れ落ちた。
速度と重さが全部一点に乗った結果がこれだが、一歩間違えれば俺がミンチになっていたという事実に、改めて背中を冷たい汗が伝う。
野生の交通事故かよ……。
イノシシが消えた跡には魔石と素材、そして塊肉が残った。
俺はしばらくその塊肉を見つめてしまった。
綺麗に切り揃えられた解体済みの赤身ブロック肉が、なぜか「大きな緑色の葉っぱ」に丁寧にくるまれて草の上に転がっている。
「……なんで葉っぱにくるまってるんだ。誰が包んだ。過剰包装反対のエコなシステムなのか?」
恐怖が一瞬で肩透かしを食らった。
ダンジョンの魔物も素材を落としたが、生肉がそのまま出てきたことはない。
なぜ屋外だと肉が出るのか、なぜ解体済みなのか、そもそも誰が葉っぱで包んだのか、まったく理由が思い浮かばない。
ノートを開いて書く。
ダンジョン外でも魔物は消える。
ドロップあり。
塊肉が出る。解体済みで葉っぱに包まれている。
理由不明。
書き終えてから、非常用としてリュックに忍ばせていた塩コショウとライター、折り畳みナイフを取り出す。
枯れ草と小枝で火を起こし、串に刺した肉を炙ると、脂が落ちて火が跳ねた。
暴力的なまでに食欲をそそる匂いが鼻腔を突き抜ける。
塩コショウを振って、かぶりつく。
「……なんでうまいんだ、これ」
崩壊後5日目の朝、高台の公衆トイレの前で地べたに座ってイノシシの肉を食べている大学生の食事として、予想外すぎる美味さだ。
外側の香ばしさと共に、驚くほど柔らかい赤身から濃厚な旨味が口いっぱいに弾け飛ぶ。
高級ジビエ料理店かよ。
ノートに書き足す。
塊肉、高品質。強烈にコメが欲しくなる味。
理由不明。
5月18日は上から来た。
昼過ぎ、空から影が落ちてくる。
翼を広げると1メートルほどの鳥型の魔物だ。
高台から見ていた飛行型より小ぶりだが、翼を畳んで一直線に落ちてくる急降下の速度が異様に速い。
赤い目が確実に俺を標的にしている。
スキルの総点検で試した厚さ1センチの板状キューブを、角を縦に向けて設置すればいけるはずだ。
「頼む、計算通りにいってくれ……っ!」
落ちてくる軌道上に、15センチ×15センチ×1センチの板状キューブを、角が上を向いた見えない空中のギロチンとして固定する。
鳥の翼が激突し、バキッという嫌な音が響いた。
片翼が、落ちた。
本体がバランスを崩して回転しながら地面へ落下したところを、慌ててバットを振り抜いて追撃する。
動かなくなってから光の粒になって消え、地面に残っていた翼の切断面も少し遅れて消滅した。
「……マジで切れた」
板状の角による切断能力という仮説が実証された瞬間だが、ラビットの骨が折れる音より、羽がちぎれる音の方がひどく湿っていて生々しい。
正直、耳を塞ぎたくなるような嫌な音だった。
鳥が消えた跡にも、やはり葉っぱにくるまれた鳥の肉がドロップした。
「今日は焼き鳥だな……」
まだバクバク言っている心臓を落ち着かせるように独りごちて、俺は鳥肉に塩コショウをまぶして火にかける。
皮目がパリッと焼き上がり、黄金色の脂がじゅくじゅくと音を立てた。
イノシシより淡白だが極上の地鶏のような弾力があり、これも悔しいくらいうまい。
「毎日肉生活かよ。BBQ会場じゃないんだぞ……」
文句はないが、ひたすらに白飯がないのが悔やまれる。
ノートを開く。
板状キューブの角、切断能力確認。
翼への有効性実証済み。
ただし切断面の音は覚悟が必要。
5月19日、クマが来た。
最初に重い草を踏む音がして、地面が少し揺れるような気配があった。
茂みからその姿が現れたとき、俺は思わず後ずさりしてしまった。
でかい。
二本足で立ち上がった巨体は3メートル近くあり、イノシシの速度とは違う、存在そのものの暴力的な圧がある。
毛を逆立てて低く唸る足元では、鋭い爪が地面に深く食い込んでいた。
「……嘘だろ、動物園のヒグマよりでかいぞ」
乾いた独り言が出た。そうとしか言えなかった。
必死に頭を回して距離を測る。
2メートル以内に入ればキューブが使えるが、今はまだ遠い。
クマがじりじりと近づいてくる。
動きは遅いが、その分だけ威圧感に押し潰されそうで嫌な汗が噴き出す。
2メートルの範囲に入った瞬間、足元に5センチのキューブを角当てで出した。
爪がキューブを踏み抜いて負け、クマがよろめく。
だが、怯んだだけで倒れない。
もう一度、今度は顔の前に出す。
鼻面がキューブに激突して頭が横に振られたが、分厚い毛皮と規格外の質量のせいで致命傷には至っていない。
「やばい、これじゃ仕留めきれない……っ」
痛みは与えられても決定打がなく、バットが届く距離まで近づこうとすれば丸太のような腕から爪が飛んでくる。
クマが前足を振り上げ、死神の鎌みたいな爪が来る。
慌てて後ろに跳んで避けた。
今度は頭突きが来たため、頭部の前にキューブを出して防ぐと、クマの方が弾かれて倒れる。
だが、またすぐに起き上がってきた。
押しても引いても決め手がなく、このままジリ貧で続けても俺が消耗するだけだ。
冷たい汗が背中を伝う。
「嘘だろ、ここで詰みかよ……」
声が震えた。
クマが低い唸り声を上げながら、じりじりと距離を詰めてくる。
そのとき、クマが咆哮を上げようと大きく口を開け、丸見えになった牙と赤い口腔が迫った。
咄嗟に、俺はキューブを出していた。
開いた口の、ど真ん中に。
顎が閉じられなくなり、クマが激しく頭を振る。
だが、座標に固定されたキューブが顎を内側から無慈悲に押さえ続けているため、口が閉じない。
「……あ、これなら」
次の瞬間、頭上すれすれにもう1個のキューブを出した。
これで頭が下げられない。
クマが動こうとするたびに、キューブが口と頭を同時に押さえつける形になる。
前足が宙を掻き体が横に傾くが、頭だけが完全に空中に固定された。
踏み込んでナイフを出し、無防備になった首の急所へ必死に深く突き立てる。
手が震えていたが、ここで止めたら俺が死ぬ。
何度も、何度も。
やがてクマが光の粒になって消えた。
俺はその場にへたり込んだ。恐怖で膝がうまく動かない。
手のひらに残る3メートルの命を絶った感触がイノシシや鳥より重すぎたし、顎が閉じられないまま唸っていたあの声が耳にこびりついて離れない。
「……完全に運ゲーだったな」
口の中に出すという発想は、その瞬間まで全く頭になかった。
ただ条件が揃った瞬間に、パニックになった脳と手が勝手に動いただけだ。
キューブの特性は分かってたはずなのに、自分の手札の活かし方を全然引き出せていない。
ノートを開く。激しい動悸のせいで、文字がミミズみたいに乱れた。
クマ型対処。口腔内固定+頭上固定=完全拘束。
咄嗟の判断。再現性の確認が必要。
顔を上げると、クマが消えた跡には魔石と「巨大な毛皮」だけが残されていた。
「……肉はなしかよ。あんなに死にかけたのに、防寒具ドロップってどういう嫌がらせだ」
どっと疲労が押し寄せる。今日はさすがに食欲が湧かなかった。
ライターで火を起こしながら遠くの街の方を見ると、まだ黒い煙が上がっていた。
5月20日、また来た。
朝のうちに気配があり、昨日と同じ方向の茂みが揺れた。
同じクマ型だ。
今度は最初から狙うしかない。
距離が詰まってから、まず角当てで鼻面を叩いて痛みを与え、怯ませる。
クマが苛立っているように唸り声を上げ、大きく口を開けた。
そこだ……っ!
すかさず口の中にキューブを出し、間髪入れずに頭上にもう1個を出して固定する。
「……よし、いけた」
昨日のまぐれを、今日は必死に条件を作って待って、意図的に同じことをやった。
これでなんとか戦術になる。
ナイフでとどめを刺す。手順が体に入ってきたのか、昨日よりは手の震えがマシだった。
クマが消えたが、やはりドロップしたのは毛皮だけで、肉は出なかった。
ノートに書く。
クマ型対処法確立。
口腔内固定+頭上固定、再現性確認済み。
意図的な再現が可能。クマ型からは肉ドロップなし。
その日の夕方。クマから肉が得られなかったため、俺は残っていたイノシシと鳥の肉を炙って食べていた。
備蓄の保存食の残量を数える。
肉は毎日ドロップするから食糧難には陥っていないが、この4日間、ひたすら肉しか食べていない。
「……猛烈に野菜が食いたい」
塩コショウの効いたうまい肉を見ながらぼやいた。
うまいが、毎日これだと炭水化物や甘いものが異常に欲しくなる。
昨日の夜、保存食のカロリーメイトを食べたとき、あの口の水分を持っていかれるパサパサした味が妙に恋しく感じたほどだ。
町の様子も気になっていた。
生存者はいるのか、建物はどうなっているのか、スーパーやコンビニに物資は残っているのか。
高台からの目視だけでは限界がある。
「ショートケーキが食いたい。炊きたての白飯が食いたい」
誰も答えない。
煙が夕空に上がり、街の方向はまだ薄く霞んでいた。




