2 なにも覚えていない猫
命からがら、迷宮から逃げて広場に辿り着いたとき、ドラフトはいつもどおりの呆け爺に戻っており、黒髪の男も目を閉じてぐったりと気を失っていた。
アゲハとナルイはどうにか二人を連れて乗合馬車に乗り、やっと自宅のあばら家に戻ってきた。
「―――じゃあ、コイツは吟遊詩人なのか?」
ナルイはベッド代わりの藁束に寝かされた黒髪の男を見やる。隣でドラフト爺もスヤスヤ寝ていた。大魔法2回も使ったので魔力切れだろう。
「うん。確かに――あの歌は母さんが歌ったのを聞いたことあるもん。あんまり使わない戦歌だけど、忘れた呪文を思い出す歌って言ってた気がする……」
「確かに、爺さんはなんかスゲー魔法思い出してたっぽいけど……、すぐ元に戻ったな。もしかしたら一時的な効果なのか」
「母さん以外の吟遊詩人初めて会うなー! なんの戦歌を歌えるのかな。形見の楽譜見てもらおうかな」
ワクワクした表情でマジックバッグから楽譜を出しているアゲハとは対称に、浮かない顔で溜息をつくナルイ。
「はあ〜、、、支援職があんな所にソロでいるとか、ゲキヤバ物件でしかないだろ。なんで連れて帰って来ちまったんだよ……」
先に目を覚ましたのはドラフトだった。
「爺ちゃん大丈夫? 身体はなんともない?」
「身体? なんかあったかの? ――お〜、マオ! 帰ってきたんじゃな、良かったなあアゲハ。可愛がっておったもんなあ」
「あ〜爺さん、元通りかよ……」
「ちょっと!爺ちゃん、よく見てよ。猫じゃないよ、ニンゲンだってば」
「いや、マオじゃよ〜。この髪の毛を見てみい」
「まあ、真っ黒でツヤツヤで、マオそっくりの毛並みだけどさ。」
アゲハが男の髪の毛を手ぐしで梳かすと、眉を顰め、ぐぐもった声を発した。それからゆっくりと目が開いた。
「……ルビーみたいな目……」
男の目は赤く透き通っていた。魔力が多い者に多い瞳だ。母に似た色合いで、アゲハは懐かしい気持ちになる。
男の痩せた身体や低い身長も、魔力過多なのに栄養状態が悪い子供時代を送った魔法使いに多いという特徴そのものだ。
このスラムの魔法使いにもよくいるタイプだ。貴族や王族ならどんなに魔力過多でも、魔力消費分のエネルギーもしっかり栄養が取れるから問題がない。だが、うっかり平民に生まれてしまった魔力が多いニンゲンは魔力を使えば使うだけ魔力エネルギーを多量に消費する身体になってしまう。若いうちから魔力を使えば、それだけ成長を阻害してしまう。小さな身体はきっと苦労したんだろうなあと、アゲハは彼の顔を見る。
まだ視点が合ってないようで、ぼんやりした表情をしている。
「あ、ねえ、どっか具合悪いとこない? 大丈夫!?」
「え、あ………。こ、ここは……?」
「うちらのクランハウス。えーっと、ユニバースの南地区なんだけど……えっと、まあ所謂スラムかな。」
「グランハウス……ユニバース……」
「お兄さんは迷宮【黄泉の森】で倒れていたんだよ。オーガがいて危なかったから、とりあえずうちに連れてきたんだよね。」
「アゲハ、起きたか!? ―――おい、お前に使ったポーション代金払えよ!!」
「ポーション……代金……?」
「お前、血だらけで息も絶え絶えだったんだからな。うちもポーションタダでやれるほど、景気よくないんだよ」
「お〜マオ、ミルクも飲むかの〜」
「もぉ!! 爺ちゃんは面倒臭くなるから、黙っててよっ。マオじゃないからねっ。ごめんねお兄さん」
「マオ……?」
「マオってのはコイツの飼ってた猫の名前で、爺さんはボケてお前のことをマオだと思ってるみたいでな。悪いな。で、お前なんて名前だ?」
「おれの、名前―――」
黒髪の男は髪をかきあげて、それから自分の手のひらを眺めた。次に顔をあげたときには、その赤い瞳が不安げに揺れているのをアゲハは見た。
「おれは、誰だ……?」
「【忘却のナイフ】か―――」
沈黙を破ったのはナルイだった。
「俺も勉強不足だから詳しくは分からねえが、【迷宮品】なら記憶喪失もありえるかもな」
「えっ、記憶喪失!!」
「そういうことだろ。【黄泉の森】に【忘却のナイフ】を武器をもつ魔物がいるのか、宝箱やモンスターのドロップか、本人の持ち物で誤って自分を傷つけたのかはわからんが。」
「そんな……」
「あーあ。これじゃ、ポーション捨てたようなもんじゃねーか。大赤字だわ。」
ナルイが大げさにため息をつくと、男はビクリとして怯えたような表情になる。
それがアゲハにはとても幼い子供に見え、気がつくと声を上げていた。
「ね、一緒に、ダンジョンで稼ごうよ! 吟遊詩人なんだから、戦歌でどうにかなるよ!! ね、ナルイ、いいよね?」
「おれ、吟遊詩人…?」
「そーだよ! 【黄泉の森】で戦歌使ってたもん!」
「なー、吟遊詩人だったことも忘れてるんじゃ、使いものにならねぇんじゃねえかな」
「ダンジョン行ったら思い出すよ! 身体が覚えてるのが冒険者ってパパたちも言ってたもん」
ぷくりと頬を膨らませたアゲハを見て、ナルイはため息をつく。
「まあ、明日もどのみちダンジョンには入らなきゃならねぇしな……」
「よーし、爺ちゃんもマオも明日に備えて、準備しよう〜!」
「マオ……?」
「どうせ名前思い出せないなら、とりあえずマオって呼ぶね? 爺ちゃんはすでにマオだと思ってるし」
「マオ……マオか……」
黒髪の男は自身の手を握ったり開いたりしながら、新しい名前を何度も呟いていた。
夜が更け、スラムのあばら家は静まり返っていた。窓の隙間から漏れる月明かりが、藁束のベッドに寝そべるマオの顔を照らす。アゲハは床に座り、母の形見の楽譜を手にじっと見つめていた。楽譜のページには、走り書きのような音符と、ところどころ色褪せた歌詞が並んでいる。彼女の指がそっと紙をなぞると、かすかな魔力が指先にチリッと走った。
「アゲハ、寝ろよ。明日ダンジョンだぞ」
ナルイが部屋の隅で剣を研ぎながらぼそっと言う。だが、その声にはいつもの苛立ちよりも少しだけ優しさが混じっていた。
「うん、わかってる」
ナルイが剣を鞘に収め、明日の荷造りを終えるのを横目で見る。魔石灯を消したナルイが藁束のベッドに丸まるのを確認して、アゲハも寝る支度をする。
「でもさ、この楽譜……マオが歌えるかもしれないよね? 」
小さく呟いてから、楽譜をマジックバッグにしまう。
ナルイとは反対側の藁束のベッドで記憶喪失の男は、寝ているのかどうかわからない。目を閉じているものの、寝息が不規則で、完全に眠っているようには見えなかった。赤い瞳が時折、薄く開いては閉じる。まるで何か遠い記憶を追いかけようとしているかのようだ。
「明日からよろしくね、マオ」
アゲハは男に掛けていた毛皮を直し、自分も藁束のベッドに潜り込むのだった。




