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忍ぶること

 春にしては気温が高いからだろうか。

 妙に身体が熱く、怠いと感じる。麒麟は黒襟の釦を外して脱ごうとした。

 その動きに反応した草間が、何気なく後ろの席を振り返り、眉間に皺を寄せる。

「おい、菅谷」

「何」

 今は英語の授業中だ。小声で返す。

「お前、顔色がおかしいぞ。熱でもあるんじゃないか?」

 指摘されて初めて、麒麟はその可能性に気づいた。彼らの遣り取りを視界に捉えた教師が英文の朗読を中断して、麒麟に声を掛ける。


 保健室のやたら白いベッドに麒麟は寝ている。

 英語教師に勧められるまま保健室に赴いた麒麟は、やはり発熱していた。風邪だろうから寝ているよう養護教諭は言い置いて、用事があるらしく保健室を出た。麒麟以外に誰もいない保健室は消毒液の仄かな匂いがする。

 身体が弱ると心も弱る。独りは寂しいと思いながら目を閉じた。


「――――失礼します。菅谷昴と申します。弟が、熱を出したと聴きまして」

 職員室で、昴は麒麟のクラスの担任教師に告げた。整った上質なスーツに身を包んだ、担任教師よりも若い昴には、実年齢以上の貫禄がある。必要以上に何度も頷きながら、麒麟は保健室にいる、と畏まった返事をした教師に昴は微笑を浮かべ、帰宅させても良いかと丁寧な口調で許可を求めた。教師に異論はない。

 菅谷家という大家の影響力は高校にも及んでいる。

 嘗ては昴も高校の一生徒だったが、校舎やそこに集う人間たちに感慨や感傷を抱くことはない。菅谷家も箱庭だが、ここもまた小さな箱庭だと感じる。自由を尊ぶ弟には窮屈ではないだろうか。

 そんなことを考えながら、来客用のスリッパでリノリウムの廊下を踏み進む。女子生徒たちから注目の視線を浴びたが徹底的に無視して、保健室の前に辿り着いた。ノックして声も掛けたが応答はない。少しの思案の後、ドアを開けて中に入った。

 養護教諭の不在に昴は心中、眉をひそめる。風邪とは言え、病人である生徒を一人で放置するという行為に怠慢を感じたからだ。学校側にモラルを求める行為の不毛も知っていたので呆れるだけに留め、一箇所だけ空間を仕切る淡いミントグリーンのカーテンに手を添えた。


「…………」


 式神の少女の付き添いもなく、独り眠る麒麟の姿がある。

 なぜ水草を呼ばなかったのだろう。そんな余裕すらなかったのか。連れ帰るにも起こす必要はあるのだが、無防備に眠る麒麟に声を掛けることを昴は躊躇った。

 神聖な生き物に対する畏怖に近い念がある。きついのであれば、このまま眠らせてやりたいとも思った。


「……麒麟」


 結局、小声で名を呼んだ。

 起きないだろう、という昴の予想に反して、麒麟の睫毛が震えて眼が現れる。泳ぐ視線はやがて昴に行き着く。

「昴。どうして……?」

 常のような警戒心のない、幼い子供みたいに素直な声が返った。

「学校からお前が寝込んでいると、うちに連絡が入った。だから迎えに来た」

「ああ……。そっか。え? 仕事は?」

「今日は昼に切り上げてる」

 無理に中断したと言うほうが正しい。麒麟が学校で発熱したと桜よりも先に聴いた昴は、仕事先から麒麟の通う高校に直行した。今日は菅谷家の車ではなく、自分で車を運転していたこともあり、身軽に動くことも可能だったのだ。

 麒麟が身体を起こそうとしている。頼りない動作に手を差し伸ばしたくなるのを、昴は堪えた。伸ばした手を払われることへの恐れもある。そんな内心を覆い隠して平淡に尋ねた。

「車まで歩けるか?」

「うん。昴の車なの?」

「そうだ」

「そっか……」

 麒麟は数秒、口を閉ざす。

 不自然と思われたかと、昴も無言で弟の沈黙を見守った。

「ごめん、昴。……本当は忙しいだろ。…………来てくれて、有り難う」

 弱いと言うより、儚い声音に昴は目を瞠る。

 普段の麒麟はもっと勝気だ。謝罪や感謝の言葉を滅多に口にしない。特に昴が相手だとその傾向は強くなる。そんなに心細かったのだろうかと思えば、抑えていた情が湧く。自ずと手を伸ばして生成り色の髪に触れていた。

「病気なら仕方ないだろうが。お前は悪くない」

 本心からの言葉だった。麒麟が現状を詫びることに釈然としない。麒麟は昴の手を払いのけたりしなかった。俯いて、小さく、うん、と言った。



 何だか今日は昴が優しい気がする。

 保健室でも昴が運転する車中でも、麒麟は熱のある頭でぼんやり考えていた。相手が弱っている弟だから加減しているのだろうか。昴は強いが、他者にまで自分の強さを要求しない分別がある。昔から、そうした大人びた分別はあった。


 弱いから、哀れまれているのか。


 思考の結果、出した答えに麒麟は悄然となる。

 強い兄が同情心から、病身の弟の布団を敷くなどしているのだと考えると、自分を情けないと感じる気持ちが溢れた。水草をもっと早く呼べば良かったと後悔する。昴を煩わせる前に。

「麒麟」

 思い悩んでいたところに呼ばれて、反応が遅れた。

「……あ、何」

「汗を掻いているだろうから、きちんと着替えてから休め。食事は(かつら)青虫(あおむし)にでも言っておく」

「――――昴、」

「何だ」

 珍しく弟の世話を焼いた兄は部屋から出て行く。

 それが普通だ。自然の行動だ。その思いと矛盾した言葉が麒麟の口から衝いて出る。


「行くの」


 何を言っているのだろう。当たり前のことを、わざわざ問い質しても意味がないのに。

 未練がましいと自分でも思う言葉を反芻して、麒麟は昴の顔を直視出来ずに顔を伏せた。

 忙しい兄に甘えるにも程がある。きっと昴は呆れているに違いない――――――――。

 麒麟は時として自分の弱さや脆さに辟易していた。陰陽師としての才能くらいしか取り柄がない卑小な人間だと思っている。

「本を持って来る」

「何の本?」



挿絵(By みてみん)



 昴の台詞の意味を掴み損ねた麒麟は、見当違いだろうと自分でも思う問いを発する。

 昴が読む本であれば、政治経済、商業関係か。陰陽道関係かもしれない。しかし麒麟の予測はいずれも外れた。

「和歌。後白河天皇(ごしらかわ)の皇女・式子内親王(しょくしないしんのう)に強く感化された現代の女流歌人の歌集だ」

 和歌。

 政治経済、商業とは全く異なる分野。菅谷家はそうした嗜みも推奨する家柄ではあるが。

 式子内親王の歌と聴いて麒麟が思い出すのは、百人一首にある歌くらいだ。確か、情熱的な恋を詠んだものだった気がする――――内容は……。

 意外に思いながらも麒麟はのろのろと浴衣に着替え、髪を結んでいたゴムをほどいて布団に潜り込んだ。

 昴が戻って来たことに安堵する。気が緩むと眠気を強く感じた。

 薄れゆく意識の中、昴の声が穏やかに耳を打つ。


「麒麟。お前、好きな歌はあるか?」

 好きな歌。思い浮かんだ一首を答えようと、鈍い唇を動かす。

「……(あめ)の海に 雲の波立ち 月の船」

「星の林に 漕ぎ隠る見ゆ。万葉集か。お前らしいな」


 昴の声が遠くなる。瞼が重い。

 自分らしいのかどうかはよく判らない。あれは単純に夜空の美しさに感嘆して詠まれた歌で、他の和歌にあるような物悲しさや恋情とは無縁だ。人間味が薄いとも思う。

 眠りに転がり落ちる寸前、麒麟は百人一首にあった式子内親王の和歌、下の句を思い出していた。

 

 命が絶えるなら早く絶えてしまえ。そうでなければ。

 生きながらえれば恋心を隠し続けることも困難だから。

 そう言い放つ女性が詠んだ、印象的な和歌の下の句は――――――――。


 忍ぶることの 弱りもぞする


 昴はどこかの女性に恋でもしているのだろうか。

 孤軍奮闘していると、弟の自分から見ても思う兄だから、出来ることがあるのなら応援してやりたい。


 麒麟はその思考を最後に深い眠りに落ちた。

 和歌集を手に持つ昴の視線は紙面ではなく、眠る麒麟に向けられている。






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