旅人の祈りと願い
美術鑑賞の一環みたいだと昴は思う。
あどけなさを残す麒麟の寝顔は、ありふれた表現だが天使のようで、飽かずその顔をじっと眺めていた。触れたいし触れられるだけの近さにあるのに、それが出来ない。女流歌人の和歌集を読む積りなど最初から昴にはなかった。
行くの、と惜しむ声調で言われた時、傍にいて良いのかと昴は逆に驚いた。普段は強がる弟の甘えが嬉しくもあり、表向きはその予定であったと言わんばかりに本を持って来ると答えた。役者だな、とそんな自分を俯瞰する。
夢合わせを思い出す。
月光の中に笑う麒麟は二十歳を超えていたように見えた。
あの光景が具現化するまで後、何年待てば良いのだろう。
――――――――果たして待つことが出来るのだろうか。
人倫に悖ると知りつつ実の妹を代替としながら、欲情を飼い馴らしてはいるが。無防備な弟を目の前に耐え続けることは、常人より強い精神力を持つ昴でさえ過酷なものがあった。
一言、告げてくれたら良いのに。
好きだと言われたら。愛することを赦されたなら、この渇きは潤される。満たされる。
砂漠を彷徨う旅人から脱することが出来るのに。
「昴……」
目を閉じたままの天使から呼ばれた。
「……どこ……」
苦行か試練の類か、と昴は自虐的に思う一方、寝言であっても喜ぶ自分がいるのも確かだ。
「――――呼ぶくらいなら来いよ、麒麟」
自分の腕の中に。小さく愚痴めいた言葉を落とす。
起こさないように気遣うあたりが小心だ。大概、嫌になる。
「誘ってるのか」
苛立ち混じりの兄の声に眠る弟は反応しない。和歌集を持つ手に力が入る。
いつまで。
いつまで待てば良い。
いつになったらこの幻獣を抱けるのか。
力でねじ伏せても愛情は得られない。そう思いながら度々、実力行使を思い描く。
それをすれば麒麟は傷つき、兄を侮蔑して嫌悪する。今より尚、遠いところに離れてしまう。
だから月光の日まで待つ他ないのだと、自分を無理矢理に納得させる。
肌を晒した麒麟が笑って名を呼んでくれる。有り難う、と昴に言う。今日のように。
昴の腕の中に当たり前のように収まって。
けれど息が苦しい。……ずっと苦しい。
絶えるものならば絶えてしまえ、と詠んだ式子内親王の気持ちが理解出来なくもない。
「……麒麟、」
耐えかねて呼び掛けたと同時、襖が音もなく開いたのでぎょっとした。
「昴兄上」
「――――勇魚」
麒麟と同じ母を持つ七歳の弟は、部屋の中に入り襖を閉める。
長兄を仰ぎ見て小首を傾げた。
「兄上。誘っているって、何のこと?」
澄んだ眼差しで不思議そうに問い掛ける。実際に理解していないのは明らかだ。
「子供は知らなくて良い。お前、麒麟の風邪がうつるからさっさと出ろ」
「やだ。昴兄上だっているじゃないか。僕も、麒麟兄上のお見舞いする」
大人が使い古した常套句に次いで、昴はかなり勇魚を邪険に扱う。頑固に拒む幼い弟を鬱陶しいと感じた。
麒麟に溺愛されている大層な身分で強欲も甚だしい。
「……昴兄上は、どうして僕が嫌いなの」
「意味が判らない。お前のことが嫌いだと俺が一度でも言ったか?」
冷淡に突き放すと勇魚は口籠り、視線を泳がせる。
「言われなくたって判るよ……。昴兄上は麒麟兄上のことは好きだけど、僕のことは好きじゃない。そのくらい、言われなくても判るもん……」
「仮にそれが事実だとして。勇魚はそれが不満なのか」
「ううん。麒麟兄上がいるから。僕はそれで良い」
チリ、と昴の胸が痛む。
そうだろう。
お前には麒麟がいる。俺とは違う。何も成さずして愛されているお前と俺とでは、雲泥の隔たりがある。母が同じ年の離れた弟であるという立場だけで、無条件に幻獣に愛されているのだ。
弁えろ、と胸中で吐き捨てた。
表情にはおくびにも出さない。
「俺は大人だから免疫がある。お前はまだ子供だから免疫がない。自分の風邪をお前にうつしたと知ったら、麒麟は悲しむだろう」
勇魚の目が大きくなった。それから、麒麟に似た目を伏せる。
「…………」
「……麒麟の夕食は桂たちが準備する。お前はそれを運んでやれば良い。目が覚めたあいつと話して満足したら部屋を出なさい。解ったか? 勇魚」
「はい。ごめんなさい。昴兄上――――」
昴は項垂れた弟の頭に、惰性じみた動きで手を置いた。
突如。
雪原のヴィジョンが浮かぶ。
どこまでも果てなく白く、命を無情に覆い尽くす。
泣いている。慟哭の声が聴こえる。
――――――――麒麟。
「兄上?」
勇魚の声により、昴は現に引き戻される。
心臓が早鐘のようだ。
莫迦な。これが先読みだと言うのなら。
「……勇魚」
「はい」
「良いか。……よく聴きなさい。これから先、何があっても、お前は決して雪の日に一人で外に出てはならない。――――――――絶対に」
「……はい」
いまいち得心が行かない表情ながら、勇魚は昴の真剣な声に頷いた。
弟を部屋から送り出して襖を閉め、昴は座り込む。
未来視や先読みは、菅谷家兄弟姉妹の中でも桜が最も秀でている。
雪原のヴィジョンはあてにならない――――。
自分に言い聴かせるが、昴はその言葉の説得力を薄弱と感じた。生々しければ生々しい程に、陰陽師の視た先は現実となる可能性は高い。
未だ眠る麒麟に目を向ける。
「……お前が泣く未来など俺は望まない」
あんな慟哭を聴く日が来るなど。
麒麟が嘆きの淵に沈むくらいなら、未来の全ては外れれば良い。
自分が狂い堕ちるほうがまだマシだと昴は思った。
「――――――――……畜生……っ」




