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言葉と制度のあいだ(エッセイ集)

業務改善にも限界があるんだってば 2 ──勤務表の穴は埋まった?現場の穴は広がってますけど?

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/07/06

前に、こんな文章を書いた。


業務改善にも限界があるんだってば。


その頃の私は、かなり限界だと思っていた。


日中5人で回していた現場が3人になって、記録を削って、申し送りを削って、動線を見直して、重複作業をなくして、それでも回らないものを「まだ改善が足りない」で済まされるのは違うんじゃないか。


そんな話を書いた。


あれから状況は良くなったのか。


残念ながら、良くなっていない。


むしろ悪化している。


しかも、悪化の仕方がかなり嫌な方向になっている。


前は、人が足りない現場で、さらに業務改善を求められることへの違和感だった。


今回は、もっと別の違和感がある。


人が足りない。 業務量は減らない。 利用者さんの生活も減らない。


その状態で、勤務表だけを整えようとしているように見える。


勤務表の穴は埋まったように見える。


でも、現場の穴はむしろ広がっている。


そんな話である。


人が足りない。


それ自体は、もう現場ではずっと前から分かっている。


人が足りないなら、本来は補充するしかない。


採用する。 派遣を入れる。 夜勤専従を考える。 短時間パートを増やす。 応援体制を整える。 業務そのものを減らす。 受け入れ人数を調整する。


そういう話になるなら、まだ分かる。


現実を見た上で、どうするかを考えていると思える。


でも、今出てきている話は、どうもそうではない。


人は増えない。 業務も減らない。 利用者さんも減らない。


ではどうするか。


今いる職員の見る範囲を広げましょう。


そんな話に見える。


もちろん、言い方はもっときれいだ。


「フロア全体で協力しましょう」 「グループをまたいで動きましょう」 「職員が1名になる時間をなくしましょう」 「パート職員やフリー職員も組み込みましょう」 「全体で助け合いましょう」


言葉だけ聞けば、悪くない。


現場同士で助け合うのは大事だ。 隣のグループが大変なら手を貸す。 コールが重なれば応援する。 入浴が押せばフォローする。 食事介助が重ければ声をかける。


そんなことは、現場は前からやっている。


今さら「協力しましょう」と言われなくても、現場はずっと協力してきた。


問題は、それを一時的な応援ではなく、恒常的な勤務体制として組み込もうとしているところだ。


これまで2グループを、実質6人から8人くらいで何とか回していた。


日によって人数に差はある。 入浴がある日もある。 パート職員がいる日もある。 応援がある日もある。 誰かが休憩に入る時間もある。 急変もある。 転倒もある。 コールが重なる時間もある。


その中で、6人なら6人なりに、8人なら8人なりに、どうにか現場は余力を作って回していた。


この「余力」は、ぜいたくではない。


事故を防ぐための余白だった。 新人に教えるための余白だった。 急変時に一人抜けても崩れないための余白だった。 食事介助と排泄介助とコールが重なった時に、誰かが動けるための余白だった。 職員が休憩に入っても、現場が完全に薄くならないための余白だった。


その余白を削って、6人で回しましょう、という話になっている。


これを効率化と言われると、かなり困る。


効率化ではない。


余力を削っているだけだ。


仮に、一つのグループの仕事量を40だとする。


4人で回すなら、一人あたり10である。


でも3人で回すなら、一人あたり約13.3になる。


もちろん実際の現場は、そんなきれいに割れない。


ある人は12。 ある人は13。 ある人は15。


入浴に入る人。 排泄を多く抱える人。 コールを拾う人。 記録が押す人。 新人を見る人。


負担には偏りが出る。


そして、足りない部分は日勤や早番の超勤で埋めていた。


つまり、足りない仕事は、残業として見えていた。


残業代も発生していた。


では、2グループ分の仕事量を80とする。


それを6人で回すなら、一人あたり約13.3である。


これは、これまで3人勤務の日に、超勤を伴って何とか対応していた負担量とかなり近い。


仕事量そのものが減っていないなら、これまで超勤として見えていた業務を、通常勤務内に押し込むだけにならないだろうか。


表面上は、残業が減るかもしれない。


勤務表上は、穴が空いていないように見えるかもしれない。


有給も取りやすくなったように見えるかもしれない。


でも、仕事そのものが消えたわけではない。


食事介助は残る。 排泄介助は残る。 入浴介助は残る。 コール対応は残る。 見守りは残る。 記録は残る。 申し送りは残る。 急変対応も、転倒リスクも、不穏対応も残る。


残業が減ったように見えても、それが業務量の削減によるものではなく、通常勤務内への圧縮であるなら、現場の負担は減っていない。


むしろ、安全確認の時間が削られる。 記録の時間が削られる。 申し送りの時間が削られる。 休憩の時間が削られる。 一人ひとりの確認が浅くなる。


それで「働きやすくなりました」と言われても、現場から見るとかなり違和感がある。


さらに、職員側からすれば、残業代が減る可能性もある。


収入は下がる。 でも仕事量は変わらない。 担当範囲は広がる。 把握する人数は増える。 移動距離も増える。 確認することも増える。


これを負担軽減と呼んでいいのか。


かなり疑問である。


勤務表の穴は埋まる。


早出がいる。 日勤がいる。 遅出がいる。 パートがいる。 フリーがいる。 隣のグループとも連携する。


紙の上では、たしかに空白がないように見える。


でも、勤務表上の穴が埋まることと、現場の穴が埋まることは違う。


現場では、コールが鳴る。


しかも一つではない。 同時に鳴る。


トイレに行きたい人がいる。 食事が進まない人がいる。 立ち上がりそうな人がいる。 入浴の準備がある。 排泄介助がある。 記録もしないといけない。 看護への報告もある。 家族からの電話もある。 新人に声もかけないといけない。


そんな中で、真逆の居室からコールが鳴る。


ピッチを持った職員が走る。


走っている間、その職員が元々いた場所は薄くなる。


配置表には「人がいる」と書いてある。


でもその人は、今そこにいない。


フロア全体で見るということは、聞こえはいい。


けれど実際には、職員の移動距離が増えるということでもある。


担当範囲が広がる。 歩く距離が増える。 ピッチを持って動き続ける。 遠い居室に行く。 戻る。 また別のコールで行く。 その間に別の場所が手薄になる。


それを「協力体制」と呼ぶのは簡単だ。


でも現場から見れば、ただ走り回る範囲が広がっただけにも見える。


そして、走っている時間は、利用者さんのそばにいない時間でもある。


職員の負担が増えるということは、職員だけの問題ではない。


気づけていた変化に気づけなくなる。 声をかける前に、別のコールへ走らなければならなくなる。 少し待てば落ち着く人を、待てなくなる。 丁寧に確認していたことを、後回しにせざるを得なくなる。


それは結局、利用者さんの生活の質に返ってくる。


介護の質は、きれいな言葉だけでは守れない。


近くにいる時間。 見る余裕。 気づく余白。 声をかける間。 確認する時間。


そういうものが必要だ。


もう一つ、大きな問題がある。


把握する人数が増える。


これまで一つのグループ、だいたい25人前後を見ていた職員が、今後はフロア全体、つまり50人近くを把握することになる。


これがどれだけ重いか、現場にいない人には伝わりにくいかもしれない。


介護は、ただ人数を見る仕事ではない。


Aさんは、朝は声かけの順番を間違えると不穏になる。 Bさんは、立ち上がりが速いけれど、声をかけると止まってくれる。 Cさんは、食事の途中でむせやすい。 Dさんは、見た目はしっかりしているけれど、移乗の時に膝が抜ける。 Eさんは、排泄の訴えがうまく出せない。 Fさんは、夕方になると不安が強くなる。 Gさんは、左側から声をかけないと聞こえにくい。 Hさんは、皮膚が弱い。 Iさんは、薬の後の様子を見る必要がある。 Jさんは、家族への伝え方にも注意がいる。


そういう情報がある。


それは、一覧表を読めば一瞬で身につくものではない。


記録に書いてある。 申し送りでも聞く。 もちろんそれも大事だ。


でも本当に使える情報は、日々の関わりの中で積み重なる。


この人は今日は顔色が悪い。 いつもより食べるのが遅い。 立ち上がり方が少し違う。 声の調子が違う。 笑い方が少ない。 トイレのタイミングがずれている。 いつもなら怒らない場面で怒った。


そういう小さい違和感は、普段から見ているから気づく。


25人を見る体制から、50人を見る体制にする。


それで「今まで通り細かく見てください」と言われても、かなり無理がある。


把握対象が倍になるということは、覚える情報量も倍になるということだ。


排泄パターン。 移乗方法。 食事介助の注意点。 認知症状。 声かけの癖。 不穏の出方。 皮膚状態。 転倒リスク。 家族対応。 記録上の注意。 服薬後の観察。


それを覚え直す。


しかも、通常業務をしながら。


いつ覚えるのか。


勤務中は走っている。 記録は押している。 休憩も削れがち。 新人も見ないといけない。 コールも鳴る。


その中で、50人分を覚え直せと言う。


勤務表には、この負担は出てこない。


紙には、人数しか見えない。


でも現場では、情報を覚える負担がある。 判断する負担がある。 確認する負担がある。 間違えないようにする緊張がある。


そこを無視して「フロア全体で見れば大丈夫」と言われても、大丈夫な理由が分からない。


記録や日誌を簡略化するという話も出てくるかもしれない。


記録の簡略化そのものを否定したいわけではない。


無駄な記録は減らした方がいい。 重複した記録も減らした方がいい。 同じことを何度も書く必要はない。


そこは前回も書いた通り、現場だってずっとやってきた。


ただ、把握する人数が25人から50人に増えるなら、本来は情報共有の重要性は上がるはずだ。


人数が増える。 見る範囲が広がる。 関わりの少ない利用者さんにも対応する。


それなら、情報共有の精度はむしろ必要になる。


それなのに、人数が増えるから日誌を簡略化しましょう、という方向だけが先に来るなら、かなり怖い。


確認漏れ。 申し送り漏れ。 記録漏れ。 判断のずれ。


そういうものが増えないのか。


記録を減らすなら、何を残して、何を削るのか。 誰が最終確認するのか。 見落としが起きた時にどう拾うのか。


そこまで決めないと、ただ情報が薄くなるだけではないかと思う。


さらに怖いのは、責任の所在だ。


「みんなで見る」


この言葉は、とても便利だ。


でも現場で一番危ないのは、誰も確実に見ていないのに、全員で見ていることになっている状態だと思う。


排泄確認は誰がしたのか。 食事量は誰が見たのか。 水分は誰が確認したのか。 服薬後の様子は誰が見たのか。 転倒リスクのある人の見守りは誰が担っていたのか。 記録漏れは誰が確認するのか。 申し送り漏れは誰が拾うのか。


「空いている人が対応する」 「近くにいる人が見る」 「全体で助け合う」


それ自体は悪くない。


でも、最終確認者が曖昧なままなら危ない。


事故が起きた時だけ、急に「誰が見ていたの」と言われる。


普段は「みんなで見て」と言われるのに、問題が起きた時だけ「担当は誰」となる。


それでは現場は守れない。


責任は、広げるだけでは薄まらない。


むしろ曖昧になる。


誰が見るのか。 誰が確認するのか。 誰が判断するのか。 誰が記録するのか。 誰が最後に責任を持つのか。


そこを決めずに「全体で見る」と言われても、現場は不安になる。


それから、人間関係の問題もある。


こういう話をすると、「そんなことを言うな」と思われるかもしれない。


でも現場は人間で回っている。


誰と誰を組ませるか。 誰が新人を見るか。 誰が入浴に強いか。 誰が食事介助に強いか。 誰が認知症対応に強いか。 誰が落ち着いて判断できるか。


そういう調整も含めて勤務は組まれている。


職員同士の相性がある。 連携のしやすさがある。 声をかけやすい人、かけにくい人がいる。 頼みやすい人、頼みにくい人がいる。 判断が合う人、合わない人がいる。


現場は機械ではない。


勤務表の線を引き直せば、全員が同じように声をかけ合い、同じように動けるわけではない。


フロア全体で助け合う体制は、人数だけで成り立つものではない。


連携できるだけの余裕がいる。 関係性がいる。 声をかけられる空気がいる。 声をかけられた時に動けるだけの手がいる。


そのどれもが足りない状態で「助け合い」を制度化すると、結局、真面目な人に負担が寄る。


頼まれたら断れない人。 気づく人。 動ける人。 責任感の強い人。 声をかけられる前に先に動いてしまう人。


そういう人が走り回る。


そして壊れる。


前に書いた時も、職員はもう壊れかけていた。


腰。 膝。 肩。 手首。


湿布を貼って働く。 コルセットを巻く。 痛み止めを飲む。 休めないから出勤する。


その状態で、さらに担当範囲を広げる。


私は正直、離職者が増えると思う。


人が足りないから、残っている人で広く見てください。 人が足りないから、50人分把握してください。 人が足りないから、真逆の居室まで走ってください。 人が足りないから、パート職員にも指示を出してください。 人が足りないから、確認もしてください。 人が足りないから、記録も漏らさないでください。 人が足りないから、今まで通り細かいケアもしてください。


それで辞めないと思う方が、私は不思議だ。


もちろん、運営側にも事情はあるのだと思う。


人が採れない。 応募がない。 物価が上がっている。 設備にもお金がかかる。 制度上の制約もある。 経営も簡単ではない。


それは分かる。


分かるけれど、現場から見える景色もある。


欠員が続いている。 その分、本来支払われるはずだった人件費はどこかで未執行になっているはずだ。 でも人は十分に補充されない。 派遣も十分ではない。 応援も恒常的ではない。 残っている職員の負担は増える。 そのうえで、勤務体制の工夫で乗り切れと言われる。


その状態が続くと、現場からはこう見えてしまう。


欠員によって生じた負担を、残っている職員の身体で埋めている。


もちろん、詳しいお金の流れは現場には見えない。


だから断定したいわけではない。


ただ、残っている職員の負担が増えているのに、人員補充や負担軽減が十分に見えないと、現場からは「足りない分を身体で埋めさせられている」と感じてしまう。


欠員分の余力があるなら、まず現場の負担軽減に使えないのか。


採用に使う。 派遣に使う。 夜勤専従に使う。 短時間パートを増やす。 残っている職員に手当として返す。 教育時間を確保する。 休憩を守る。 身体を壊している職員を少しでも楽にする。


そういう話が先ではないのか。


勤務表を整えることは大事だ。


でも、勤務表だけ整っても、人は増えない。


設備や仕組みは支えにはなる。


でも、最後に気づき、触れ、判断するのは人だ。


その人を削り続けたまま、勤務表だけ整えても、現場は長く持たない。


前の文章で、私はこう書いた。


業務改善にも限界がある。


今は、もう一つ言いたい。


勤務表改善にも限界がある。


勤務表の穴を埋めても、現場の穴は埋まらない。


紙の上で人がいることと、実際にその場で見守れることは違う。


フロア全体で見ることと、誰かが責任を持って見ることは違う。


担当範囲を広げることと、個別ケアを維持することは簡単には両立しない。


人員不足を分散することと、人員不足を解決することは違う。


負担を広く薄く伸ばせば、一人ひとりの負担が見えにくくなるかもしれない。


でも、消えるわけではない。


むしろ、見えにくくなった負担ほど危ない。


誰の負担なのか分からない。 誰の責任なのか分からない。 誰が見ていたのか分からない。 誰が限界なのか分からない。


そうやって、現場は静かに削れていく。


そしてある日、人が辞める。


その時になって、また言われるのだろうか。


「さらに業務改善を進めましょう」


いや、もう何度でも言う。


業務改善にも限界があるんだってば。


勤務表をいじっても、人は増えない。 担当範囲を広げても、身体は増えない。 把握人数を倍にしても、頭は二つにならない。 走る距離を伸ばしても、一日は伸びない。 責任を曖昧にしても、事故のリスクは消えない。


人が必要な仕事は、最後は人でしか受けられない。


そこを認めないまま作られた改善案は、改善ではなく、現場への押し込みだと思う。


もし本当にこの体制を試すなら、せめて条件がいる。


試行期間を決めること。 評価項目を決めること。 中止基準を決めること。 コール対応時間を見ること。 移動距離を見ること。 残業時間を見ること。 転倒を見ること。 皮膚トラブルを見ること。 排泄遅延を見ること。 入浴中止を見ること。 記録漏れを見ること。 離職者数を見ること。 職員の疲労を見ること。


そして、現場が「危ない」と言ったら止めること。


「やってみないと分からない」と言うなら、やって悪化した時に止める仕組みも必要だ。


始める時だけ勢いがあって、悪化した時は現場の努力不足にされるのでは困る。


現場は、もう十分に工夫してきた。


もう十分に削ってきた。


もう十分に持たせてきた。


だから今必要なのは、さらに現場を広く薄く伸ばすことではない。


人を入れること。 仕事を減らすこと。 できないことをできないと認めること。 そして、今いる職員をこれ以上壊さないこと。


稼働率が上がった。


それは数字としては良いのかもしれない。


でもその下で、職員の稼働率はとっくに限界を超えている。


今度は勤務表の穴が埋まったと言われるのかもしれない。


でも言わせてほしい。


勤務表の穴は埋まっても、現場の穴は広がってますけど。


そして、その穴に落ちるのは、いつも現場の職員だ。


だから、もう一度。


業務改善にも限界があるんだってば。


そして今度は、これも言いたい。


勤務表でごまかすにも、限界があるんだってば。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


この文章は、夜勤の合間に頭の中でずっと引っかかっていたことを、少しずつ言葉にしたものです。


前回「業務改善にも限界がある」と書いた時より、現場の状況は良くなるどころか、さらに厳しくなっているように感じます。


もちろん、協力すること自体を否定したいわけではありません。

現場はこれまでも、隣が大変なら手を貸し、コールが重なれば走り、どうにか事故を防ごうと動いてきました。

ただ、それを恒常的な体制として組み込まれた時、果たしてそれは改善なのか、という疑問があります。


勤務表の上では穴が埋まって見えても、現場では移動距離が増え、把握する利用者様の人数が増え、確認することも責任も増えていきます。

25人を把握していた職員に、50人分の把握を求める。

6〜8人で何とか回していたものを、6人で回す前提にする。

それでも今まで通りの細かいケアを求める。

それは本当に負担軽減なのか。

それとも、負担を広く薄く伸ばして、見えにくくしているだけなのか。


夜勤中にそんなことを考えてしまうくらいには、現場はもうかなり疲れているのだと思います。


業務改善にも限界があるんだってば。

そして今回は、もう一つ。


勤務表でごまかすにも、限界があるんだってば。

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― 新着の感想 ―
読ませていただきました。 現場で働いている身として、「勤務表の穴は埋まっても、現場の穴は埋まらない」という言葉が、とても印象に残りました。 私の職場でも人手不足は深刻で、職員四人で二十人近くの食事…
ものすごくよく分かり、ものすごく心にくるエッセイでした。 医療や介護の人手不足はもうずっと続いてて、どこも改善されない故ですよね。 原因とか危険性とか見えてる人には見えてるけれど、経営者とかかなり上の…
これ『なーろっぱ』のお話におとしこめば、まさに、ブラック職場で働かされる聖女様ですよね。でも現実には颯爽と現れてくれるスパダリも、『君のことをずっと見ていた!』と言ってくれるスパダリもいないんですね……
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