第2話 伝説的な竜騎兵クラフトと竜の縁
鼻を突くのは、病室に立ち込める苦い薬草の煎じ薬と、母さんの体から漏れ出る、焦げた鉄のような竜血の匂いだ。
母さんは竜血感染症に冒されている。竜の血液を介する感染症だといわれる、皮膚の端々が硬い鱗に変色し、高熱がその精神を削り取る奇病。父さんが仕事に出る日、僕は母さんの傍らで、その節くれだった、もはや人間のものではない硬さになった手を握りしめるのが日課だった。
(この鱗がなければ。この病さえなければ、母さんは笑ってクラフト、大好きよって僕を抱きしめてくれたのに)
ドクン、と心臓が早鐘を打つ。母さんの苦しげな吐息を聞くたび、喉の奥がカラカラに乾き、やり場のない憤りが胃の底でトグロを巻く。父が休日の日、「遊んでおいで」という言葉を耳にすると、僕は逃げるように家を飛び出し、僻地にある商店に向かうのが日課になっていた。僕がいても何の力にもなれない。でもせめて母さんが好きだった銀嶺花を渡して、その香りで死臭を上書きしたかった。
花を買った帰り道。ふと白兎と目が合った。逃げることもせず、じっとこちらを見つめ、ついてこいと言うように振り返っては進んでを繰り返す。森の奥深く湿った苔の匂いと、ひんやりとした木陰の空気。そこで僕は「それ」を見つけた。
巨体。鈍く光る緑の鱗。そして、力なく地面に投げ出された翼。
竜だ。
母さんから自由を奪い、今も命を喰らい続けている病の根源が、腹を波打たせて喘いでいる。
「……お前のせいだ」
拳を強く握りしめ、指の関節が白く浮き出る。掌の中にある銀嶺花が、僕の体温でじっとりと湿っていくのが分かった。殺してやりたい。こいつの喉笛を掻き切れば、母さんの病が治るのではないか。そんな理不尽な思考が脳内を支配する。
だが、竜の黄金色の瞳が僕を捉えた。
そこにあるのは、知性でも凶暴性でもなく、ただ純粋な「飢え」と、死を前にした「孤独」だった。
竜は、僕の手にある銀嶺花に鼻先を向け、弱々しく鳴いた。その花に含まれる魔力か、効能か、あるいはそれ以外か。知識が足りない僕でも、今のこいつにはこれが必要なのだと直感で悟った。
(嫌だ。あげるもんか。これは母さんのための花だ。お前たちのせいで、母さんは―――!)
激しい葛藤が胸を焦がす。差し出しかけた手を引き込み、胸に抱え込む。足元がふらつき、冷や汗が背中を伝う。
けれど、竜の漏らした「くぅ」という、まるで子供が泣くような掠れた声が、僕の耳を、良心を、容赦なく突き刺した。
「……ちくしょう、勝手にしろ!」
僕は吐き捨てるように言い、花を竜の口元に放り投げた。
罪悪感と自己嫌悪で胸が焼けるようだ。母さんの仇かもしれない存在に情けをかけた自分を殺したい。だが、花を食んだ竜の瞳に、みるみるうちに生命の灯が宿っていくのを見て、止まっていた僕の呼吸がようやく再開された。
竜は立ち上がり、長い首を僕の肩に擦り寄せた。
ざらりとした鱗の感触。それは母さんの腕の質感と酷いくらい似ていた。視線が絡まり、「いいのかい、病み上がりなのに?」と訊ねると、ゆっくりと頷いた。竜が僕を背に乗せ、力強く羽ばたく。
視界が弾けた。
地を這う者にしか分からぬ、湿った空気の重みが消え去る。頬を叩く風は鋭く、そして驚くほどに清冽だ。
上空から見下ろす世界は、あんなに憎んでいたはずなのに、宝石のように美しかった。
「あそこだ……僕の家だ!」
指差した先。小さな屋根の下で、二つの影がこちらを見上げていた。
父さんと、そして支えられながらも自分の足で立ち、力一杯手を振る母さんの姿。
距離があって顔はよく見えない。けれど、僕には分かった。二人は母さんが病床に伏し、僕が生まれてから一度も見たことがないような、眩しい太陽のような笑顔を浮かべていることが。
(見てるかい、母さん。僕は今、空を飛んでいるんだ)
心臓が、歓喜で爆発しそうに跳ねた。喉の奥が熱くなり、叫びたい衝動に駆られる。この瞬間だけは、病も、差別も、泥臭い日常も、すべて雲の下に置き去りにできた。
それからほどなくして、竜は誰もこない森深くへと戻り、母さんも静かに息を引き取った。
奇跡は長くは続かず、僕は父さんが葬儀の際こらえきれず号泣する横で、じっと手を握っていたのを今でも覚えている。
十数年の月日が流れ、僕は今、当時の父と同じくらいの背丈になり、竜騎兵の証である竜鎧を纏っている。
首元にはあの時の竜が去り際に遺していった、深緑色の逆鱗のペンダント。
指先でその硬い質感をなぞる。
ひんやりとした布地の中で、この石だけはいつも、あの日の空と同じ熱を持って私の肌を焦がしている。
「さぁ、行こうか」
僕は相棒の翼を叩き、青天へと視線を向けた。
母さんの愛した花の色と同じ、悲劇さえ晴らすほどに眩い空へ。




