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アイギル大陸の語り草  作者: ?がらくた


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第1話 皮剥ぎヴァロールの不思議な体験談

右目のまぶたが熱い。粘りつく液体の感触で、それが自分の血だと悟る。

アイギル大陸の北端、凍てつく風が吹き抜けるシュタルク村の路地裏で、俺ことヴァロールは泥を啜っていた。

誰も俺を名前では呼ばない、知ろうとも思っていない。

ただ薄汚い賎民という肩書きでしか、俺を判断しないのだ。


「汚らわしい皮剥ぎが。俺たちの聖域に穢れた指で触れるなと言っただろう」


吐き捨てられた言葉と共に、重い革靴が俺の脇腹を抉る。

肺から空気が強制的に押し出され、喉の奥からヒュッという情けない音が漏れた。肋骨がきしむ音が鼓膜の裏側で響く。痛い、という感情よりも先に、内臓がせり上がってくる不快感が全身を支配する。


俺の仕事は、死んだ家畜や魔物の皮を剥ぎ、なめすことだ。

天光神アウレウスを信奉するこの村の住人にとって、死体に触れる俺たちは不浄そのもの。だが、彼らが着ている防寒具も、ギルドの戦士が纏う革鎧も、すべて俺たちの血の滲むような作業から生まれている。


「……ぁ、……が……」


謝ろうとしたが、口の中に溜まった鉄の味が邪魔をして言葉にならない。

指先が冷たい地面を掻く。爪の間に湿った土と、誰のものかもわからない獣の毛が食い込み、指先が痺れるように熱い。


「死んじまえよ。ヴァニタスの懐へな」


最後の一撃は、こめかみに入った。

視界が真っ白に弾け、それから急激に無へと塗りつぶされていく。

降り続く雨の、肌を刺すような冷たささえもが、遠のいていった。


意識が戻ったとき、俺は落ちていた。

上下左右の感覚がない。そこにあるのは、重厚で、それでいてひどく静かな暗闇。

まるで、古くなった獣脂の中に閉じ込められたような、まとわりつく沈黙だ。


———ああ、死んだのか。


脳裏に、かつて母が言っていた言葉がよぎる。


「私たちはアウレウス様の光には届かない。死んだら、深い闇の底でヴァニタス様に喰われるだけだよ」


身体が重い。

生きていた頃の、差別と労働に明け暮れた日々。

1個のパンを買うために、100クランを必死に稼いだ日々。

指先のささくれ、なめし液で荒れた手の甲、村人の蔑むような視線。

それらが濁流のように押し寄せ、胸の奥がギュウと締め付けられる。心臓は止まっているはずなのに、その場所が焼けるように熱い。


「……もう、いいじゃないか」


自分自身の声が、内側で響く。

あんなに苦しい思いをして、100クラン、200クランと小銭を数えて、何になる?

誰からも感謝されず、泥を噛んで死ぬ。それが俺の人生だった。

ここで消えてしまえば、もう指先の痛みも、寒さも、空腹も感じなくて済む。

楽になりたい。この深淵の闇に、溶けてしまいたい。


だが、心のどこかが、泥を掻いた指先の感触を覚えている。

あの日、必死に剥いだ白狼の皮。その滑らかな手触り。

命を奪い、それを道具へと昇華させる瞬間に感じた、唯一の、俺だけの誇り。

それを捨てていいのか?

何もないまま、ただ不浄なものとして消えるのか?


「——―問おう。汝の魂は、何によって満たされるか」


重低音。

鼓膜を揺らすのではない、存在そのものを揺さぶる震動が闇から響いた。

目の前に、巨大な穴が現れる。いや、それは巨大な眼球のようでもあり、星のない夜空のようでもあった。


深淵王ヴァニタス。

混沌と死の主。


俺は答えなければならない。

理屈では、神への許しを請うべきだ。天光の正義を、秩序を、慈愛を願うべきだと。

だが、俺の喉からせり上がったのは、そんな綺麗な言葉ではなかった。


「……俺は……」


喉が渇いて張り付く。


「俺は、俺がここにいた証が欲しい。奪われ、踏みにじられた分だけ……俺の手の中に、重みが欲しい!」


それは祈りというより、呪詛に近かった。

美徳も、正義も、俺を救わなかった。

俺を救うのは、俺自身の執着でしかない。


「面白い。ならば、その欲を抱えて戻るがいい」


闇が、一気に収束する。

心臓がドクンと大きく跳ね、肺が冷たい空気を一気に吸い込んだ。


「ガハッ! げほっ、ごほっ……!」


激しく咳き込み、泥水を吐き出す。

視界が開けた。そこは、さっきまで俺が倒れていた路地裏だ。

雨は止み、夜の静寂が村を包んでいる。

全身が痛む。殴られた箇所は熱を持ち、心臓の鼓動に合わせてズキズキと疼く。だが、その痛みが「生きている」という強烈な実感を伴って俺を突き動かす。


手の平に、違和感があった。

ひどく重い。

泥にまみれた右手を、ゆっくりと顔の前に持ってくる。

月明かりの下で、それは鈍い輝きを放っていた。


「……これは……」


掌にあったのは、小石ほどの大きさの塊が数個。

泥を払い、指先でその質感を確かめる。

なめらかで、硬く、そして……この世のものとは思えないほどに重い。


黄金だ。


それも、精錬された金貨などではない。

深淵の底から引き摺り出してきたような、歪で、純度の高い、生々しい黄金の塊。

指先でその冷たい感触をなぞる。

1枚100クランのパンが、一体いくつ買えるだろうか。

いや、そんなレベルではない。これがあれば、この不浄の村を去り、誰も俺を知らない場所で、一流の工房を構えることだってできる。


俺は黄金を握りしめた。

爪が肉に食い込み、血が滲むほどに強く。

その痛みさえも、今は愛おしい。

これが、俺の魂の代価。

俺が深淵から持ち帰った、生きた証だ。


「……ふふ、あはははは!」


喉の奥から、乾いた笑いが漏れる。

冷たい夜風が、汗と血で汚れた頬を撫でていく。

もはや、不快感はない。

俺は立ち上がり、ふらつく足取りで、だが確かな足取りで、闇の向こうへと歩き出した。


背後には、ただ静寂と、俺が流した泥まみれの血痕だけが残されていた。

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