第3話 美食家スヴァネヴィット令嬢のはしたない悪食
「ああ……たまらない。この死の香りが、最高のスパイスになるんだわ」
私は膝まで沼に浸かりながら、仕留めたばかりの「沼這いの屍肉鬼」の死骸を見つめていた。周囲の冒険者たちは、この害獣を「動く汚物」と呼び、剣を汚すことすら嫌う。だが私の視界では、この異形の肉塊は至高の食材へと姿を変えていく。
(食べちゃダメよ。これは穢れなのだから。教会の教えに背く行為よ。――でも、この震えはどうしようもないのね)
胃の奥がキュウと鳴り、過剰な唾液が口内に溢れる。指先が興奮で痙攣し、握りしめたナイフの柄が、浮き出た血管を圧迫して痛い。理性と食欲が脳内で激しく衝突し、火花を散らす。まともな人間なら、この泥まみれの汚濁した肉を口に運ぼうとは思うまい。だが、私にとって「未知」への飢えは、生存本能すらも容易に凌駕する。
私は震える手でナイフを突き立て、沼這いの皮を剥ぎ取った。
ねっとりと糸を引く紫色の体液が、私の白い指を汚す。その瞬間、肌を撫でる湿った風が、一段と冷たく感じられた。
「……っ、冷たい。でも、なんて熱いのかしら、この肉は」
切り出した一切れの肉を、簡易コンロの火にかける。
じゅう、と肉が焼ける音が静寂の沼地に響く。立ち上がる煙は、お世辞にも食欲をそそるものではない。硫黄とアンモニアを混ぜたような、鼻を刺す不快な刺激。けれど、その奥に潜む「生命の濃縮された香り」を、私の鼻は見逃さない。
(一口だけ、味を確認するだけよ。そう、これは調査なの……いいえ、嘘ね。私はただ、この世界の底を、深淵を、この舌で味わい尽くしたいだけ!)
心臓の鼓動が耳の奥で爆音を立てる。喉が熱を帯びて、嚥下を強く求めていた。
腐敗した泥と、魔物の体液が混ざり合った、胸のムカムカする饐えた臭いが漂うそれを、私は半生の状態のまま躊躇なく口へと放り込んだ。
その瞬間、味覚の暴力が脳髄を直撃した。
「……ッ!!」
声が出ない。
舌の上で踊るのは、痺れるような劇物的な刺激と、それに反比例するような濃厚な脂の甘み。肺の中の空気が一瞬で「毒」に塗り替えられたような錯覚。内臓がひっくり返るような嘔吐感と、脳を灼き尽くすような快楽が同時に押し寄せ、私は泥の中に崩れ落ちた。
視界がチカチカと明滅する。
(しっ、死ぬ! これは、食べてはいけないものだったんだわ。身体が拒絶して心臓が止まりそう―――)
冷や汗が滝のように流れ、全身の産毛が逆立つ。指先が泥を掴み、爪の間に汚泥が食い込む。
だが、その苦しみの中で、私は確かに感じていた。
天光神アウレウスの光も届かない、この沼の底で息づく「害獣」の、泥臭くも力強い生命の奔流を。
こんなところを見られればアイギル大陸のゾリーデ公国を統治する名家の令嬢、スヴァネヴィットの築いた名は地に堕ちる。白鳥のようだと称される私の艶やかな白髪と純白の良質なシルクの衣が、薄汚い魔物の泥と血にまみれた姿を見たら、殿方に幻滅されるのは確実。
けれどそんなことも些事と感じられるほどの至福に包まれていて
「はぁ……はぁ……っ、最高……」
口元を拭い、脂でぎらついた唇を吊り上げた。
吐き気は消えない。腹の底はまだ煮え繰り返っている。けれど、私の心はこれまでにないほどの充足感で満たされていた。
「次は……あの、一国を滅ぼすと言われている『虚無の鴉』の脳髄がいいわね」
私は立ち上がり、泥まみれのドレスの裾を払うことすら忘れ、次の「絶望」を探して歩き出す。
背後では半分食べ残された沼這いの屍肉鬼の亡骸が、三原神の理から外れた死の世界で、ただ静かに底深き沼の中に沈んでいった。




