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子狼との絆

 母狼が死んだ後、グリードはしばらく動けなかった。自分は確かに力を受け取った。けれど目の前の母は死んだ、子を託し最後の力まで渡して。


 そのとき、かすかな身じろぎの音がした。


 銀灰色の毛並みが震え、小さく呻くような声が漏れる。子狼は、やがてゆっくりと目を開けた。母より少し薄い、凍った湖面みたいな青白い瞳。その瞳が最初に探したのは、当然ながら母だった。子狼はふらつきながら立ち上がり、母のもとへ寄る。そして鼻先を頬へ押しつけ、耳を舐め、肩へ体を擦り寄せた。


 母は動かない。子狼は最初、それを理解できていないようだった。もう一度鼻先で押す。さらに何度も押し、押して、やがて小さく鳴いた。


 その声は、狼の遠吠えというより、子どもが母を呼ぶ声に近かった。


 高位の魔狼らしい知性も誇りも持っているはずなのに、その鳴き方はどうしようもなく子どもだった。母の首へ顔を埋め、前脚で何度も体を揺すり、喉の奥を震わせる。ただ、そこにいたはずの存在が冷たくなっていることを受け止められず、泣くことしかできないように見えた。


 グリードは何も言えなかった。慰めの言葉なんて、こんな相手に通じるのかも分からない。ただ少し離れたところで、子狼が泣きやむのを待つしかなかった。


 どれくらい時間が経ったのか、谷底の薄闇の中では分からない。ただ、やがて子狼は鼻をすすり上げるみたいに息を吸い、母の顔へ最後に頬を寄せ、それからグリードの方へ向き直った。まだ目元は濡れているように見えるのに、その立ち姿には幼いなりの誇りがあった。


『……ぼくは、フローズ』


 頭の中へ響く声は、母よりずっと幼かった。泣いたあとの掠れ声の余韻も残っている。


『おかあさんが……あなたに、たのんだ。だから、ぼくもいく』


「お前……大丈夫なのか」


 思わずそう聞くと、フローズは鼻を鳴らした。泣いたばかりのくせに、少しだけ背伸びしたような顔をする。


『だいじょうぶじゃない。でも、いく。おかあさんのいし、つぐから』


 六歳くらいの子どもみたいだ、とグリードは思った。言葉はしっかりしているのに、強がり方が幼い。けれど、その幼さがかえって本気を感じさせた。母を失ったばかりの子が、それでも前を向こうとしている。


 グリードは深く息を吐いた。自分に責任を押しつけられている感じがして重たいとも思ったが、それが不思議と嫌ではなかった。自分が初めて、ただ生き延びるためだけではない理由で誰かと繋がった気がしたからかもしれない。


「……じゃあ、まずここから出るぞ」


 フローズは頷いた。


 グリードはその背へ跨ってみる。フローズもそれが当然のように受け入れている。母ほどではないがやはり大きいと感じると同時に、今までの魔犬とは比べものにならないほど自然に乗れたことに少し驚く。鞍も固定具もないのに体が吸いつくように馴染む。フローズが一歩踏み出した瞬間、肩の動きも背の揺れも、まるで最初から知っていたかのように読める。落ちないよう必死にしがみつくのではなく、ちゃんと騎乗しているという感覚が初めて成立した。


 永続スキルの効果だ、とグリードはすぐに理解した。『身体能力上昇』で単純に体が強くなっているのもあるだろうが、それに加えて、『沼の魔狼の加護』か『魔獣の保護者』のどちらか、あるいは両方が、魔獣との関係そのものを変えているのかもしれない。フローズの呼吸や体重移動が、以前よりずっと身近に感じられた。


『ちのにおい、わかる』


 フローズが言った。


『さっきの……いっぱいしんだやつらのにおい、うっすらする。そっちいけば、もどれる』


「頼む」


 谷底からの脱出は、想像したよりずっと速かった。フローズはまだ幼いとはいえ、普通の魔犬など比較にならないほどの身体能力を持っていた。崖沿いの細い足場を見極め、濡れた岩を蹴り、倒木を飛び越え、霧の中を迷いなく進むことができる。グリードはその背で身を低くしながら、高位魔獣の能力の高さにただ驚いていた。


 途中何度か休みを入れながら、二人は山域を抜け、やがて第三魔王領の前線基地がある辺りの荒れた岩地が見えてくる。そこまで戻ってきたとき、グリードは初めて冷静に考えた。このままフローズを基地へ連れて入るのはまずい、と。前線基地にも魔狼はいるがそれはごく少数で、しかも指揮官級しか使えない特別な存在だ。それなのに、自分のような最底辺ゴブリンが見知らぬ魔狼を連れて現れたらどうなるか。少なくとも明るい未来は想像できない。


「ここでいいか……」


 基地のすぐ近くにある丘の麓、その岩陰にグリードは目をつけた。見張り台からは死角になりやすく、近づくのも簡単ではない。枯れ枝と草を集め、岩の窪みへ押し込み、即席の寝床を作る。雨風を完全に防げるものではないが、谷底を出たばかりのいまは十分だった。フローズは文句も言わず、むしろ「これでもけっこういい」とでも言いたげに匂いを嗅ぎ回っていた。


 そこでグリードは、さらに奇妙なことに気づく。フローズが岩陰へ入っても、自分にはなんとなくその位置が分かるのだ。目で見ているわけでも、匂いを追っているわけでもない。方角と距離の感覚が、胸の奥にうっすらと浮かんでいる。逆にフローズも、グリードがどこに立っているか分かっているようだった。


『へんなかんじ』


 フローズが首を傾げる。


『あなた、そこにいるってわかる。みえなくても、なんとなく』


「俺もだ」


 永続スキルか加護の効果だろう。お互いにどこにいても、大まかな場所が分かる。離れていても繋がっている感覚とでも言おうか。グリードはその事実に、少しだけ胸が熱くなるのを覚えた。フローズはもう、どこかから偶然拾ってきた強い魔獣ではなく、自分の相棒なのだと思えたからだ。


 グリードはフローズの前へ立った。フローズはまだ幼いくせに、少し格好をつけるように胸を張っている。泣いたあとで毛並みが少し乱れているのが、かえって子どもっぽかった。


「しばらくは、ここで我慢してくれ」


 グリードは言った。


「基地へ連れていけば騒ぎになる。俺みたいなのが、お前みたいな魔狼を連れてたら、面倒どころじゃ済まない」


『うん』


 フローズは素直に頷いた。その返事があまりにもあっさりしていて、グリードは少しだけ拍子抜けする。


『でも、またくるでしょ』


「当然だ、絶対に来る」


 その言葉は、自然に口をついて出た。グリードにとってそれは約束というより、ただの決定事項だった。


 グリードは少しだけ間を置いて、それから静かに言った。


「……いつか、お前に堂々と乗れる男になるからな」


 それは自分自身への誓いでもあった。バルグを見返すとか、雑兵から抜け出すとか、そういう狭い話ではない。フローズにふさわしい騎手にならなければならない。隠れてこそこそ会いに来るだけではなく、誰の前でも、これは俺の相棒だと言えるところまでのし上がるのだと。


 フローズはその言葉を聞いて、ちょっとだけ得意げに鼻を鳴らした。幼いなりに、言われた意味はちゃんと分かっているのだろう。けれど最後に、ぼそっとこう付け加えた。


『じゃあ、なるべくはやくね』


 その言い方が、六歳くらいの子どもそのもので、グリードは思わず苦笑した。


「努力する」


『うん。ぼく、まってる』


 風が丘を撫でた。前線基地の方からは、いつもの獣臭と鉄の匂いが流れてくる。そこへ戻れば、自分はまたただの進化できない雑兵だ。傷だらけで、誰からも期待されず、犬舎の掃除を押しつけられるゴブリンの一匹にすぎない。


 けれど、もう一人ではない。最後にもう一度だけフローズを振り返り、グリードは一人で基地の方へ歩き出した。薄汚れた雑兵の背中のまま、それでも胸の奥には、いままでなかった確かな熱を抱えて。


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