永続スキル
「無理だ」
グリードは気がつくと、そう口にしていた。
「俺にはそんな力はない。あんたらみたいなのを守るどころか、自分が生きるので精一杯だ。俺は進化もできないゴブリンだぞ。魔犬に乗るのだって、やっと少ししがみつけるようになったくらいで……」
自分で言っていて惨めな言い訳のようにも聞こえたが、事実だった。グリードは最底辺の雑兵だ。谷底から這い上がれるかどうかも怪しいのに、普通の魔犬より大きい子狼を連れて生き延びるなど、できるはずがない。
母狼はその言葉を否定しなかった。ただ、静かに言った。
『だからこそ、お願いします』
金の瞳が、真っ直ぐにグリードを見た。
『私に、一時的に跨ってください』
「……は?」
『そうすれば、あなたに力の一部を譲れます。子を助けるための、最低限の力を』
何を言われたのか、グリードはすぐには理解できなかった。跨って、それで力を譲る。瀕死の母狼へ騎乗することと、力を受け取ることが繋がらない。
母狼は短く息を吐いた。傷口から血がさらに溢れる。
『時間が……ありません。あなたは、そういう者なのでしょう。さきほど、あの犬にしがみつき、落ちながらも生きていた。なら、私の子を託せる』
「そういう者って何だよ」
『……騎る者です』
その一言が、妙に重くグリードの胸へ落ちた。
「……分かった」
グリードは呻くように答えた。
母狼の背へ上がるのは簡単ではなかった。自分自身が傷だらけで、足元も悪い。岩の出っ張りへ片足をかけ、毛並みに手を埋め、滑り落ちそうになりながらよじ登る。母狼の体温はまだあったが、それは熱ではなく、死にかけた獣の最後のぬくもりに近いものだった。背に跨がると、魔犬とは比べものにならない安定感があった。広く、深く、まるで動く岩へ乗ったみたいだ。
「これでいいのか」
『まだ……少しだけ、歩かねばなりません』
母狼はそう言って、喉の奥で苦鳴を漏らした。
『ただ乗るだけでは、足りません。私があなたを乗せ、動く。そうして初めて、世界に騎乗したと認識されます』
母狼は全身を震わせながら前脚へ力を込めた。折れかけた脚が泥に沈み、脇腹の裂傷から新しい血が流れる。それでも彼女は立ち上がった。ぐらりと揺れる巨体へしがみつきながら、グリードは思わず「無理するな」と言いかけたが、母狼は聞いていない。自分が歩かなければ意味がないことを、彼女自身が知っているからだ。
一歩、泥を踏む音がした。
二歩、母狼の呼吸が荒くなる。
三歩目を踏み出したとき、母狼の身体が淡く金色に光り始めた。
最初は傷口の周りだけだった。そこから毛並みの一本一本へ、月光みたいな柔らかい光が広がっていく。灰白色の体が内側から発光するように輝き、その光が背を通じてグリードの体へ流れ込んできた。
最初に感じたのは熱だった。だが燃えるような熱ではない。冷たい湖へ飛び込んだ瞬間のような、骨の髄まで澄んでいく感覚に近い、奇妙な熱だった。筋肉の隙間を、骨の中を、血管の一本一本を、光が流れていく。痛みさえ一瞬だけ遠のき、代わりに理解できない何かが体の中へ増えていく。
その瞬間、声がした。
耳で聞いたのではない。頭の中に、平坦で感情のない機械音声みたいな響きが流れた。
『永続スキル『剣の適性(小)』、『氷魔法の適性(小)』、『身体能力上昇(小)』、『沼の魔狼の加護』、『魔獣の保護者(小)』を獲得しました。』
グリードは息を呑んだ。これが、進化した者たちが口を揃えて言っている「進化の声」なのか。だが違う、とほとんど同時に理解する。言われたのは進化ではなく、永続スキルだ。
知識が雷のように繋がった。ローグライトという形式の何度でも挑戦を繰り返すゲーム。一度の探索の中でしか使えない装備や一時バフとは違い、次の挑戦へ持ち越せる恒久的な強化や自分そのものへ刻まれる能力、永続スキルとはそういうものだ。
グリードの呼吸が荒くなる。以前から、ライダーは騎乗相手によって能力が変動するはずだと考えていた。弱い魔犬に乗れば弱い力しか借りられず、強い魔獣に乗ればより大きな力を扱える。だが、それはあくまで乗っている間だけの話だと思っていた。まさか、一定以上の存在に正式に騎乗した場合、その力の一部が永続スキルとして自分へ残るとは。
しかも、この母狼が渡してきたものは明らかに普通ではない。『剣の適性』、『氷魔法の適性』、『身体能力上昇』は、どれも単純に強い。そして特異なのは『沼の魔狼の加護』と『魔獣の保護者』。名を聞いただけで分かるがこの母狼は単なる魔獣ではない。大湖沼地帯の主であるあの黒狼と同格、もしくは近い階梯にいる上位の魔獣なのだろう。加護を与えるということは、ただ強いだけではなく、他者に影響を及ぼす格を持つということだ。神獣、とまでは言い切れないにせよ、その入口に片足ぐらいはかけていたのかもしれない。
それほどの存在へ騎乗すれば、永続スキルが得られる。その事実は、グリードの中で道だったものを確信へ変えた。自分の成り上がりは、妄想ではない。世界にそういう仕組みがあるのだ。ライダーはただ魔犬に乗る落ちこぼれ兵科ではない。上位存在へ届きさえすれば、自分そのものを書き換えていける。
母狼は、そこでふっと体から力を抜いた。光は消え、巨体が再び泥へ崩れ落ちる。グリードは慌てて背から飛び降り、母狼の顔の前へ回り込んだ。金の瞳はもう、先ほどのような強い光を放っていなかった。だが、その奥には安堵があった。
『……うまく、渡せました』
かすれた声が、やさしく響く。
『これで……あの子に、少しだけ生きる道を残せた』
「待て。まだ――」
『お願い、します』
それが最後だった。
母狼の呼吸が一度、大きく揺れた。次に吐かれた息は、もう吸い戻されなかった。金色の瞳から光が静かに抜けていき、巨大な灰白色の体は、谷底の湿った空気の中でただの骸へ変わっていった。




