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沼の古狼

 落ちている間、グリードには自分がまだ生きているのかどうかすら分からなかった。


 崖を越えた瞬間に吹きつけた風は、耳の奥を裂くような鋭さだった。何かに掴まろうとして伸ばした手は空を切り、足の下には何もなかった。暗い谷が口を開け、その奥へ吸い込まれていく。視界の端で岩肌が何度も流れ、張り出した枝や蔦のようなものが体のどこかへ当たった気もしたが、衝撃と回転が重なりすぎて何が何だか分からない。ただ、骨の髄まで凍るような恐怖だけは鮮明だった。


 気がついたとき、グリードは冷たい泥の上に横たわっていた。


 目を開けても、しばらくは何も見えなかった。谷底全体が、昼とも夜ともつかない湿った薄闇に閉ざされている。上を見上げれば、遥か高い場所に細い裂け目みたいな空が見え、その向こうにかすかな光がある。


 全身が痛いと感じるが、もはやどこが痛くてどこが動くのかが分からない。肩が焼けるように熱く、背中には岩で擦られたような痛みが広がっている。額から流れた血が乾きかけて視界の端を引きつらせ、口の中は泥と血の味でいっぱいだった。だが、致命傷を負っている感じはしない。落下の途中で崖の張り出しや枝に何度もぶつかり、そのたびに勢いが削がれたのだろう。最後に落ちた場所も、岩ではなく湿った泥地だったらしい。運が良かったとしか言いようがなかった。


 もっとも、ここから這い上がれるかどうかは別問題だった。グリードは歯を食いしばりながら肘をつき、なんとか上半身を起こした。谷底には深い湿気が満ちている。岩にはびっしりと苔が張りつき、所々に白い靄のようなものが漂っていた。冷気はあるのに空気は重く、腐葉土と湿った石の匂いが混ざっている。こんな場所に長くいれば、傷口から腐っていきそうだ。


 そのとき、グリードは自分が一人ではないことに気づいた。


 少し離れた場所、岩壁の根元のような窪みに、巨大な影が横たわっていた。最初は大岩かと思ったが、次の瞬間、それがゆっくりと息を吐いた。重く、掠れた呼吸だった。グリードは反射的に身をこわばらせる。谷へ落ちた直後に、今度は谷底の魔獣に食われて終わるのか、と。


 だが、その影はあまりにも大きく、あまりにも傷ついていた。


 灰白色の魔狼だった。サイに迫るほどの巨体で、毛並みは雪のような白ではなく、霧に濡れた灰と月光を薄く混ぜたような色をしている。濃い血に汚れていなければ、神話に出てくる獣かなにかに見えたかもしれない。しかし現実のそれは、ひどい有様だった。肩口は深々と裂かれ、脇腹は肉が抉れ、片方の前脚は不自然な角度に曲がっている。周囲の地面は血で濡れ、谷底の湿った土が黒く染まっていた。傷口の形を見れば、斬られたというより、鋭い爪と牙で引き裂かれたのだと分かる。


 あの黒狼だ、とグリードは直感した。山中で、自分がしがみついていた魔犬を一振りで真っ二つにした巨大な黒狼。この灰白色の魔狼は、恐らくあれと争ったのだ。


 そして、その巨体の傍らに、もう一つの影があった。


 こちらも狼だが、さすがに母狼ほどではない。それでも魔犬よりは大きい。グリードがついさっきまで逃げるために捕まっていた魔犬より少し大きいかもしれなかった。毛は母より少し濃い銀灰色で、四肢は長く、耳の先がまだ幼い柔らかさを残している。子狼、と呼ぶには大きすぎるが、母狼の隣では間違いなく幼く見えた。その子狼は倒れたままぴくりとも動かず、まるで眠っているようだった。


 グリードが息を呑んで見つめていると、母狼がゆっくりと頭を持ち上げた。金色の瞳がこちらを見る。その視線には獣の威圧感があったが、襲いかかってくる気配はない。それどころか、疲れきった、どこか穏やかなものすら宿していた。


 そして次の瞬間、声が聞こえた。


『……助かって、いましたか』


 口が動いたわけではない。なのに、言葉は確かに頭の内側へ響いた。鼓膜ではなく、脳の奥へ直接落ちてくるような、不思議な感覚だった。


 グリードは息を呑んで驚いた。巨体の灰白の魔狼と谷底で出会い、頭の中へ響く声で語りかけられる。普通なら怖気づくところだが、母狼の声には不思議と敵意がなかった。


『黒いあれに追われて……あなたも、落ちてきたのですね』


「……あんた、しゃべれるのか」


 思わずそう返すと、母狼はかすかに目を細めた。笑ったのかもしれない。


『あなたの言葉を頭の中で借りているだけです。長くは保ちません』


 その声は、女性のように柔らかかった。だからといって弱々しいわけではない。深い霧の奥から響く鐘みたいに静かで、しかし確かな力を持っていた。


 グリードは慎重に一歩だけ近づいた。母狼はもう立てないだろうと見て取れた。だが、それでも不用意に近づけば喉を食いちぎられて終わるかもしれない。谷底に落ちてからずっと張りつめていた警戒が、まだ体の芯にこびりついている。


 母狼はそんなグリードの慎重さを咎めなかった。少しだけ視線を横へ動かし、隣で眠る子狼を見た。


『あの子を……頼みたいのです』


 その言葉は唐突で、あまりに重かった。グリードはすぐには意味を飲み込めなかった。


『私たちは、大湖沼地帯から来ました』


 母狼は、自分の命の残りを数えるような静かな口調で語り始めた。


 人族領と魔王領の間には、広大な湖と沼と湿地が入り混じった地帯があるのだという。深い霧が立ちこめ、足場は脆く、水面の下には見えぬ穴や泥が口を開ける。軍勢が大きな隊列を保って通れる土地ではない。人も魔物もむやみに近づかない、半ば世界から外れたような場所。その大湖沼地帯に、この母子は棲んでいた。


『そこで、生きていました。狩りをして、縄張りを守って……あの子を育てて』


 だが、そこへより強い黒狼が現れた。群れではなく、一頭で。それだけで湖沼の主だった獣たちが次々と追われ、あるいは食い破られていったのだという。母狼も戦ったが、勝てなかった。縄張りを捨て、子を連れて逃げ、霧の沼を抜け、岩場を越え、第三魔王領近くまで逃れてきた。そこでついに追いつかれ、山中で最後の戦いになり、どうにか子だけは庇ってこの谷底へ落ちてきたが、自分はもう長くないとのことだった。


 グリードは黙って話を聞いていた。可哀想だと思ったし、できるなら何かをしてあげたいという情ぐらいは持っていた。だが同時に、自分にどうしろというのだという現実的な思いが頭を離れなかった。


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