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ゴブリンスミスの工房

 第三魔王領南方前線基地の朝は、夜より少しだけ残酷だった。夜のうちは闇がいくらか汚れを隠してくれるが、薄青い光が岩壁の上から差し込み始めると、血の染みも、泥にまみれた足跡も、粗末な柵のひび割れも、すべてが露わになる。見張り台の上では眠気を押し殺したゴブリン兵が槍にもたれ、炊き場の近くではオーク兵が眠そうな顔で鍋をかき回している。門の外から吹き込んでくる風には、いつものように土と鉄と獣臭、それに遠い人族の砦の煙の匂いが混ざっていた。


 グリードは脇腹を押さえながら、基地の内壁沿いを歩いていた。昨夜の暴行の痕は身体中に残っている。頬はまだ熱を持って腫れ、こめかみの奥がずきずきと疼く。だが歩みを止めるつもりはなかった。


 グリードが向かった先は、基地の片隅にある鍛冶工房だった。補修部品や壊れかけの槍先や金具ばかりが集まる、小さく煤けた工房だ。ここで働いているのがゴブリンスミスのノッケだった。


 工房に近づくと、まだ朝靄の抜けきらない空気の中に、鉄を打つ乾いた音が響いてくる。カン、カン、と規則正しく、だが急かすようでもなく鳴る音には、戦場の喚声とも怒号とも違う不思議な落ち着きがあった。岩壁をくり抜いて作った低い建物の隙間からは、炉の赤い光がちらちらと漏れ、周囲の冷たい石をわずかに温めている。グリードはその熱を感じた瞬間、ほんの少しだけ肩の力が抜けるのを覚えた。


 戸を押して中に入ると、炉の熱気と鉄と油の匂いが一気にまとわりついた。小さな工房の中には、使い古された金床、壁に吊るされたハンマーや鉗子、半ばまで研ぎ上げられた槍先、壊れた鞍の部品、革帯の束などが雑然と並んでいる。


 炉の前に立つノッケは、相変わらずどう見てもゴブリンには見えなかった。ずんぐりとした体躯に、短いが太い首、丸太みたいな前腕。肌はゴブリン特有の緑ではあるが、グリードのように薄くくすんだ色ではなく、煤と熱に焼かれて深い鈍色を帯びていた。顔つきも、細く尖った小鬼めいたそれではない。潰れた鼻梁の下には短い顎髭が密に生え、低い眉の下の目は小さいが、その視線は妙に落ち着いている。敵方であるドワーフに似ている、と陰で囁く者は少なくなかったし、実際、工房の外で彼が斧でも担いでいれば、人族側の傭兵に紛れていても不思議ではない気さえした。


 ゴブリンという種は進化によって大きく姿を変える。グリードのような進化見込みなしの最底辺個体は、誰が見ても雑兵と分かる姿だ。全身緑色の小鬼で、枯れ木のように痩せた四肢、ぎょろついた目、鼻先の潰れた醜い顔をしている。強さも美しさもない、ただ弱さだけが目立つ存在だ。だがノッケは違う。鍛冶屋としての素養が形に出たのか、それとも別の進化に片足をかけているのか、グリードには分からない。


 ノッケは鉄片を金床に置いたまま、振り返りもせずに言った。


「朝っぱらから面ァ見せるとは珍しいな」


 その声音はぶっきらぼうだが、追い返す響きではなかった。グリードが二歩ほど炉に近づいたところで、ようやくノッケは顔を上げ、腫れ上がった頬やこめかみの痣を一瞥した。小さな目がわずかに細くなる。


「バルグか」


 問いではなく確認だった。グリードが黙って頷くと、ノッケは鼻を鳴らした。


「加減を知らん馬鹿だな、あいつは」


 それだけ言って、彼は手にした鉄片を水桶へ浸した。じゅっと音がして白い蒸気が上がる。痛ましいとか、気の毒だとか、そんな言葉は出てこない。だがノッケのそういうところを、グリードは嫌いではなかった。哀れみを向けられるくらいなら、無骨な一言の方がずっとましだ。


「座れ。立ってると見てるこっちが疲れる」


 顎で示された木箱に腰を下ろしたところで、グリードは工房の奥にもう一つ気配があることに気づいた。壁際の樽の上に腰掛け、片足をぶらぶらさせながらこちらを眺めている影がいる。灰褐色の短い毛並み、尖った耳、細くしなやかな四肢。コボルトシーフのジャルだった。


「ひでえ顔だな」


 開口一番それである。だが声の調子は、からかい半分、驚き半分といったところで、露骨な嘲りは薄い。ジャルは干し肉の欠片を放り込んでいた手を止め、首を傾げた。


「いや、いつも大した顔じゃないけどよ。今日は輪をかけて見苦しい」


「黙れ」


 反射的に返した言葉に、ジャルは喉の奥でくつくつ笑った。彼とはこの工房で時々顔を合わせてきた。盗品まがいの金具を直しに来ることもあれば、索敵用の小刀を研ぎに来ることもある。友人と呼べるほど親しいわけではない。進化できないことを茶化してくるし、面倒事には首を突っ込まない主義だ。だがジャルは、少なくともグリードを自分より下の存在として扱ってはこなかった。この基地では、それだけで十分に信頼に足る。


「で、ただ殴られた顔見せに来たわけじゃねえんだろ」


 ジャルの目が細くなる。コボルト特有の嗅覚だけでなく、こういう勘も鋭い男だった。グリードは少しだけ息を整えた。工房の熱気の中で話すべきことを頭の中で組み立てようとするが、そもそもここで笑われればそれまでだと思い直す。だから思い切って結論から言うことにした。


「ゴブリンライダーになりたい。どうしたらいいか教えて欲しい」


 口にしてみると、その言葉は思ったよりも滑稽に響いた気がした。工房の中に一瞬だけ沈黙が落ちる。ノッケは何も言わず、ジャルは一度だけ瞬きをしてから、吹き出しそうになるのを堪えるように鼻を鳴らした。


「おいおい、いきなりでけえこと言うなよ。いや、でけえっていうか、この基地じゃそれも大して褒められた進み方じゃねえけど」


 グリードは構わず、なぜ自分がゴブリンライダーになりたいと思ったのか、必死で説明する。自分でもうまく説明できている自信はなかったが、それでも言うしかない。ノッケは槌を置き、腕を組んだ。ジャルも軽口を挟まずに聞いている。やはりここで相談して正解だったと、グリードはその点だけは安堵していた。


 

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