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ゴブリンライダーの目覚め

 第三魔王領南方前線基地は、砦と呼ぶには荒々しい外観で、黒ずんだ岩肌を削って積み上げた防壁には、乾いた血の色が幾重にも沁みついている。対人類の戦線の最前線であるここでは、強い者が偉く、進化できる者が価値を持ち、進化の芽を持たない者は、最初から使い潰されるためだけに生まれてきたと見なされる。


 グリードは、その中でも底辺にいた。


 背は低く、手足は細い。牙も爪も並み以下で、魔力らしいものも感じられない。生まれて間もない頃に刻まれた判定は「進化見込みなし」、その言葉は呪いのように幼い頃から何度も浴びせられてきた。同期の中には、将来ホブゴブリンに化けると目される者がいた。武器の扱いに秀でて、ゴブリンナイト候補だと持て囃される者もいた。稀に魔力持ちが現れれば、メイジだ、シャーマンだと周囲は騒いだ。だがグリードには何もなかった。だから歩兵として槍を持つことすらろくに許されず、いま彼に割り振られている仕事は、前線基地の外れに並ぶ犬舎の掃除と、ゴブリンライダー用の魔犬の世話だった。


 魔犬たちは、狼と猟犬と魔獣の中間のような生き物だった。灰黒色の毛並みに、唾液の糸を引く口、夜目の利く黄の瞳。気性は荒く、弱い個体が近づけばすぐに噛みつく。ライダー候補のゴブリンたちでさえ、機嫌の悪い個体には不用意に手を伸ばさない。それを、グリードは毎日相手にしていた。糞尿を掻き出し、泥にまみれた水桶を洗い、傷口の膿を拭い、腐りかけた肉を刻んで餌皿に入れる。手首には何本も噛み傷が走り、脛には蹴り飛ばされた痕が残っていた。


 その日の夕方、犬舎の上に赤黒い夕陽が傾き始めたころ、先発隊が帰還した。門の方から地鳴りのような足音が響き、血と汗の匂いが一気に濃くなる。帰ってきた連中の先頭にいたのが、バルグだった。


 種族はホブゴブリンで、グリードより頭ひとつどころか、二つは大きい。肩幅は広く、皮膚は深い緑色で、片目の上を横切る古傷がいつも顔を歪めて見せる。先発小隊長格としてそこそこ名が通っているが、その実、粗暴さと残忍さでのし上がってきた類の男だ。弱い者を見つける嗅覚にかけては異様に鋭く、グリードはその視線を向けられるたびに、皮膚の下を冷たい虫が這うような不快感を覚えていた。


 そのバルグが、犬舎の前で足を止めた。帰還したばかりで機嫌がいいようには見えない。肩当てには剣傷が走り、手にした棍棒には乾ききらない血がこびりついている。手柄を立て損ねたのか、上の機嫌を損ねたのか、理由は知らない。だが、八つ当たりの相手を探していることだけは分かった。


「おい、クズ」


 呼ばれて、グリードは反射的に背を丸めた。それだけで、周囲にいた下級ゴブリンたちが面白がるように口の端を吊り上げる。バルグはゆっくりと近づいてきて、グリードの手元の餌皿を見下ろした。


「誰の犬に、そんな腐りかけの肉食わせてんだ」


「いえ、そんな腐っては――」


 言い終える前に、頬に衝撃が走った。視界が横に飛び、地面の泥が口に入る。素手で殴られただけで、顎の骨が軋むような痛みが広がった。


「口答えしてんじゃねえよ」


 周囲から低く笑う声とバルグ同調する笑いが重なる。グリードは泥を吐きながら起き上がろうとしたが、その背中をバルグの足が踏みつけた。肋骨のあたりで嫌な音が鳴る。


「進化もできねえ出来損ないが、俺の前でしゃべっていいと思ってんのか」


 背中にかかる重みが増し、息が詰まる。グリードは爪を立てて地面を掻いた。バルグは足をどけたかと思うと、今度は腹を蹴り上げた。胃の中のものが逆流し、グリードは咳き込みながら吐いた。耳の奥で、誰かの笑い声がやけに遠く響く。バルグはわざと犬舎の柵の方へ彼を引きずり、髪を掴んで顔を上げさせた。


「目が気に入らねえな、お前」


 片目の腫れぼったい視界の向こうで、バルグの傷だらけの顔が近づく。


「死んでねえ目をしてやがる。お前みてえなゴミはな、怯えて這いつくばってりゃそれでいいんだよ」


 グリードはそのとき、ほんの一瞬だけ、睨み返してしまった。自分でもなぜそんなことをしたのか分からない。ただ、悔しかった。悔しくて、どうしても視線を逸らせなかった。


 次の瞬間、額に激痛が走った。バルグがグリードの頭を柵へ叩きつけたのだ。木と骨がぶつかる鈍い音がして、視界が白く弾ける。続けざまにもう一度、二度と叩きつけられる。三度目で、視界が傾いた。最後に見えたのは、犬舎の奥で一頭の魔犬が低く唸り、黄色い瞳でこちらを見ている姿だった。


 目を覚ましたとき、グリードは薄暗い小屋の藁の上に転がっていた。鼻をつくのは薬草ではなく、血と膿と湿った布の臭いだ。治療小屋と呼ばれてはいるが、実態は死なせるには惜しい雑兵を放り込んでおくための場所に過ぎない。


 体を起こそうとして、グリードは顔をしかめた。全身が痛い。雑に巻かれた包帯はもう赤く滲み、乾いて皮膚に張りついている。喉の奥は乾き切り、口の中には鉄の味が残っていた。


 どうして自分だけなのだろう、と考えたことは何度もある。なぜ同期のあいつは太い腕と未来を持ち、自分は細い手足と犬の糞を掻く毎日しか持たないのか。なぜ殴られるのはいつも自分で、殴る側には当たり前のように明日があるのか。問いかけたところで答えなど返ってこない。それが魔界の理だからだ。強い者が上、進化できる者が上、できない者は下。生まれた瞬間から決まっている。


 ここまでかもしれない、と初めてはっきり思った。どれだけ歯を食いしばっても、進化の芽は生えない。どれだけ泥を啜って生き延びても、明日にはまた誰かに踏みつけられる。自分は一生、弱いままなのだ。


 そう思った途端、喉の奥がきつく締まった。悔しかった。こんなところで終わりたくない。バルグに殴られ、誰にも覚えられず、ゴミみたいに捨てられて終わるのだけは嫌だった。諦めたくない。


 その思いが、心のどこか深いところに触れた瞬間だった。頭の奥で、何かが弾けた。


 最初は熱く感じた。一瞬、殴られた傷が疼いているのではないかとも思ったが、実際にはもっと別の、忘れていたものが一気に流れ込んでくるような熱だった。見たことのないはずの光景が、かつて自分だった者が見た光景が、断片となって脳裏を走り抜ける。指先で忙しく叩くボタン、画面の中で動く兵士と獣と竜、レベル、弱い初期ユニット、だが組み合わせ次第で終盤まで通用する構成、搭乗、召喚、シナジー。頭の中に、意味を持つ言葉が次々と蘇ってきた。


 グリードは目を見開いた。自分は知っている。どこか遠い世界で、確かに知っていた。弱い本体でも、自分以外の性能を借りれば戦えることを。生まれ持った数値が低くても、運用と組み合わせでひっくり返せることを。


 荒い息を吐きながら、グリードは自分の現状を思い返した。自分はゴブリンライダー用の魔犬の世話係をしている。ライダー兵科とは、ホブゴブリンなどに進化できなかった個体の掃き溜めと蔑まれている。だが、本当にそうなのか。


 魔犬に乗るライダーは、なぜ歩兵より速いのか。なぜ夜目が利き、匂いを追え、平地でも森でも敵を追い立てられるのか。決まっている、魔犬の脚と感覚を騎乗することで戦力に変えているからだ。ならば、ライダーとは弱い本体に、騎獣の性能を上乗せする兵科じゃないのか。


 その考えに辿り着いた瞬間、霧が晴れるみたいに世界の見え方が変わった。


 歩兵のままでは駄目だ。何もない自分は、正面から戦えばすぐ死ぬ。だが、ライダーならどうだ。乗る相手が自分より強ければ、その能力を自分の戦いに取り込めるのではないか。進化できないことは欠点だが、強い騎獣を従えで乗ることで勝つ道はある。


 心臓が、さっきまでとは違う音で鳴り始めた。絶望の冷たさが引いていき、その下からじわじわと熱が湧き上がってくる。気づけば、グリードは藁の上で体を起こしていた。脇腹に痛みが走り、視界が揺れたが、かまわなかった。ふらつく膝に力を込めて立ち上がる。治療小屋の戸を押し開けると、夜の冷気が火照った顔にぶつかった。


 基地は半ば眠っていた。遠くで見張りの角笛が一度鳴り、風に乗って鉄の鎖が軋む音が聞こえる。グリードはよろめきながら犬舎へ向かった。そこはいつものように獣臭く、暗く、低い唸り声に満ちていた。奥の檻の一つでは、ほかのゴブリンが手を焼いている荒い魔犬が、鎖を張って喉を震わせている。黄色い瞳が闇の中で二つ、ぎらりと光った。


 グリードは立ち止まり、その目をまっすぐ見返した。さっきまでと同じ犬舎なのに、まるで別の景色に見える。ここは掃き溜めなんかじゃない。ここは、自分が這い上がるための入口だ。


 唇の端からまだ血の味がした。グリードはそれを舌で拭い、痛む喉で、それでもはっきりと呟いた。


「進化できない? なら進化したやつ全部乗りこなしてやる。」


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