魔人ゼクト・ラーヴァ
バルグが報告を終えて天幕を出ていったあとも、ガズロックはしばらくその場で動かなかった。
副官用の天幕は広くはないが、整頓されている。粗末な机の上に戦線の地図と補給の帳簿、各小隊から上がってきた報告板が置かれているだけだ。必要なものだけがあり、余計な飾りはない。それはこの合理主義者のオークの性格をそのまま表していた。ガズロックは贅沢や見栄に興味がない。必要なら使うし、不要なら捨てる、そういう男だ。
だからこそ、いま机に肘をついて黙り込んでいる姿は珍しかった。
バルグが持ってきた報告は、事実だけを並べれば単純だった。気まぐれで暫定ライダーに回した進化見込みなしの下級ゴブリンが、砦襲撃戦で思いのほか役に立った。しかも上級弓兵を仕留める隙を作り、その直後にレベルアップらしき変化まで見せた。さらに翌朝には肉体の変化が周囲にも分かるほど現れていた。
事実だけなら、ガズロックの好みだ。使えるなら使う、伸びるなら前へ出す、軍とはそういうものだ。特に前線の基地では、感情や慣習に縛られて駒を無駄にする方が愚かしい。
だが今回ばかりは、その判断を支えるべきガズロック自身の常識の方が揺らいでいた。
下級ゴブリンは、ガズロックの知る限り、二通りにしかならない。進化するか、死ぬかだ。進化の芽がある者は生き残り、いずれホブゴブリンや別系統の上位種へ変わる。芽がない者は使い潰され、配置とほぼ同時に死ぬ。戦場はそういうふるいだ。例外はほとんどない、というかそんな例外は見たことがない。
つまり、下級ゴブリンが進化しないままレベルアップして、しかもその結果として肉体が変わるという事態は、ガズロックの常識にはなかった。
もし本当にそんな個体がいるなら、それは戦力として利用価値がある一方で、理屈の外側にいる存在でもある。ガズロックは迷信深いわけではないし、説明のつかないものをすぐに呪いや神の意思へ結びつけるような愚かさもないが、説明のつかないものに対して警戒を抱かないほど馬鹿でもなかった。
彼は指先で机を軽く叩いた。使うべきか、埋もれさせるべきか、少なくともいまは目立たせない方がいい。下級種の変異など、騒がれてもいいことはない。結局、処遇は今までどおりで様子を見るのが妥当だ。そう結論し、バルグを呼び戻してその方針を伝えようとしたときだった。
天幕の外で短い怒号が交わされ、すぐに見張りの兵が入ってくる。
「ガズロック副官、隊長殿がお見えです」
ガズロックは一瞬だけ目を細めた。
基地の隊長とは、小隊長や中隊長のような現場指揮官とは違う。第三魔王領の長大な前線では、一つの拠点に最高指揮官が常駐しているわけではない。戦線は長く拠点は多いため、第三魔王領でも屈指の実力者たちが複数の基地をまとめて担当し、日常の運営は名代たる副官が預かる形になっている。ガズロックのような存在はそのためにいる。
そして、この基地を担当する隊長が、魔人ゼクト・ラーヴァだった。
天幕の幕が上がり、長身の影が入ってくる。黒髪に赤い眼、すらりとした体躯に無駄な肉はなく、歩くだけで周囲の空気が張り詰める。美形と言っていい顔立ちだが、その整い方がかえって冷たさを際立たせていた。魔人族らしい異質さはあるのに、派手さはない。むしろ洗練されすぎていて、人ではない何かが人の形をして立っているように見える。第三魔王領でも最強部隊の一つと名高い黒刃騎兵団長も兼ねている実力者で、若き英雄として広く名を知られた男だ。ガズロックですら、この男の前ではただの現場管理者でしかない。
「ご足労を」
ガズロックが頭を下げると、ゼクトは軽く顎を引いただけだった。
「時間がない。最近の戦況だけ聞く」
ガズロックは簡潔に報告を始める。補給線の安定化は順調であること、人族側の動きがやや活発化していること、最近の小砦襲撃で得た物資の内訳、A級冒険者というイレギュラーに遭遇したことによるライダー部隊の大幅な損耗。そのどれに対しても、ゼクトは必要最低限の問いだけを返し、判断を下していく。感情は見えないが、一つ一つの情報を、戦線全体の中で配置し直しているのが分かる。
最近の戦果をひととおり聞き終えたゼクトは、「悪くない」とだけ言った。褒め言葉としてはそっけないが、この男にしては上出来という評価なのだろう。ガズロックもそう受け取った。
ゼクトがそのまま帰ろうとしたとき、ガズロックは迷った。いま言うべきか、言わずに済ませるべきか。だが、自分一人の判断で抱え込んで後から問題になる方が厄介だとも思った。
「隊長」
呼び止める。ゼクトが振り向く。その赤い眼に、わずかに「まだ何かあるのか」という煩わしげな色が差す。
「一件、珍しい報告があります」
そうしてガズロックは、グリードの件を説明した。話を聞いているあいだ、ゼクトの表情はほとんど動かなかった。ガズロックは途中で、自分の報告が滑稽に聞こえているのではないかという感覚さえ覚えた。下級ゴブリンがレベルアップで成長した。口に出せば、たしかに冗談みたいな話だ。
だが最後まで聞き終えたゼクトは、ほんのわずかに鼻で笑った。
「珍しい、というほどでもない」
ガズロックは目を瞬いた。
「時折いる。下級種のくせに、滑稽な方向へ伸びるやつがな。たいていはどこかで死ぬが」
あまりにもあっさりした物言いだった。ガズロックが抱えていた不安を、ゼクトは不安として共有しなかった。理屈に収まらないのなら、収まらないまま処理すればいい、とでも言いたげだった。
「本当に成長を続けるなら使い潰せ。そうでないなら、そのうち死ぬ。それだけだ」
そして、ごく軽い調子で付け加える。
「もし成長を続けるというなら、このゼクト・ラーヴァの名において昇格させても構わん」
半分は冗談なのだろうが、ゼクトの名を出すことには大きな現実が伴う。ガズロックはその言葉を聞いた瞬間、逆に胸の奥が冷えた。もしあの下級ゴブリンが本当にそこまで行くなら、ガズロックがわずかにでも怯えた可能性が実際のものになるなら、それは果たして良い未来なのだろうか、と。合理的に考えれば戦力になる芽を喜ぶべきだ。だが長年、前線の現実を見てきた勘が、これは普通の芽ではないと告げている。それでも、
「……承知しました」
結局、現場指揮官にしか過ぎないガズロックに、それ以上言えることはなかった。ゼクトはすでに興味を失ったように頷き、天幕を出ていく。残されたガズロックはしばらく立ったまま、幕の揺れを見ていた。
成長を続けるなら昇格させても構わない、と隊長はそう言った。
ガズロックは深く息を吐いた。理屈で説明しきれない不安は消えていない。だが命令が下った以上、やることは決まった。あの下級ゴブリンはしばらく前線で使って様子を見る。順調に成長するなら、それに応じた処遇で扱うことにする。
使い潰せ、とゼクトは言った。ガズロックは机の上の地図へ目を落としながら、その言葉が妙に引っかかるのを感じていた。使うだけで潰せるほど単純なら、話は楽なのだがな、と思いながら。




