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12/18

レベルアップの朝

 翌朝、グリードはいつもと違う感覚で目を覚ました。


 最初に気づいたのは、寝藁の上から身を起こすときの体の軽さだった。砦襲撃の後で、全身に小さな打撲や擦り傷は残っているし、昨日の壁登りで酷使した前腕にはまだ鈍い痛みがあった。だが、それらを抱えたまま動いているはずなのに、体の芯に一本、しっかりとした軸が通っている。寝返りを打つだけでも軋んでいた肩や背が、今日は妙に素直に動いた。


 グリードはしばらくその場で自分の両腕を見下ろした。粗い緑色の皮膚に覆われた腕は、見慣れているはずなのに、どこか張りが違う。指を曲げ、拳を握り、肘を伸ばすと、筋肉の付き方が変わっているのを実感する。痩せた枝みたいだった腕に、確かに力が入るようになっている。また全身の部位が少しずつ締まり、少しずつ厚みを増している感触があり、背丈もほんのわずかだが伸びている気がした。寝藁から立ち上がったときに視界の高さが前と違うように感じたのは、気のせいではないだろう。


 砦襲撃のあとに聞こえた「レベルが2に上がりました」という声を思い出す。あれはただの能力の変化ではなかったのだ。下級ゴブリンがレベルアップだけでここまで身体そのものが変わるなど、グリード自身も予想していなかった。


 寝所の隅に置いてあったアイアンソードを拾い上げ、刃へ自分の顔を映す。目は以前よりわずかに大きく開いているし、潰れた鼻筋にはほんの少しだけだが鼻梁が通った気配があった。口元も、これまでの間抜けな緩みが減り、いくらか引き締まって見える。醜さそのものが消えたわけでもないし、下級ゴブリン特有の粗さや歪さはまだ色濃く残っている。だが、それでも何かが一段だけ上へ上がったということはわかった。

 

 なぜこんなことが知られていないのかと考え、グリードはすぐに答えへ辿り着いた。下級ゴブリンは普通、戦場へ出されれば死ぬから、進化する前にレベルアップなんてできないのだ。もし生き残れるほどの素質があるなら、その前にホブゴブリンなり別の上位種なりへ進化している。進化せずにレベルだけ上げて身体を変える個体など、そもそも前例がないのだろう。

 

 グリードはアイアンソードを元の場所へ置き、いつものように厩舎へ向かった。レベルが上がっても忙しさまで変わるわけではない。魔犬の世話は待ってくれないし、餌の時間が遅れれば吠え立てる。そう思って歩いていたのだが、厩舎の前へ差しかかった途端、空気が変わった。


 魔犬の鎖を整えていたゴブリンライダーたちの視線が、一斉にこちらへ向く。


「おい、見ろよ」

「何か変じゃねえか」

「昨日まであんな面だったか?」


 囁きはすぐにざわめきへ変わった。自分の変化は、やはり他の連中の目にも分かるのだ。しかも、進化見込みなしの出来損ないだったグリードが少しでも成長したとなれば、面白く思わない者の方が多いに決まっている。

 そのうちの一匹が、ニヤニヤとした嫌な笑みが浮かべながら近づいてきた。ライダーとして魔犬の背に乗っているだけあって、下級ゴブリンの中では筋肉がついている個体だ。


「おい、餌の切り方が雑なんだよ。お前のせいでこいつら朝から機嫌悪いぞ」


 目の前の餌桶は、まだグリードが触ってすらいない。


「俺はまだ――」

「口答えしてんじゃねえ」


 拳が飛んできたその瞬間、グリードは驚くほど鮮明に相手の動きを見た。普段なら「殴られる」と認識したときにはもう遅く、顔面で受けるしかなかった軌道が、今日はやけに遅く見えた。

 かわしたのはほとんど反射だった。首と肩を少しずらすと、拳が鼻先をかすめて空を切る。そのまま体が勝手に動き、鳩尾目がけて蹴りを叩き込む。鈍い感触が足に伝わり、思ったより深く入ったのだとわかった。

 ゴブリンライダーはその場へ倒れ込み、胃の中身をぶちまけながら地面を転げ回る。グリードは自分でも驚いていた。あんな軽い踏み込みで、これほどの威力が出るとは思っていなかったのだ。


「てめえっ!」


 別の一匹が怒鳴りながら飛びかかってくる。今度は真正面から組みついて押し倒す気だろう。グリードは一瞬迷ったが、敵の首根っこを掴み、勢いをそのまま利用して、自分も半ば地面へ寝転ぶように横へ倒れながら一回転する。そして骨の軋む感触とともに、相手の体を柵へ叩きつけた。

 乾いた音が厩舎に響く。ぶつけられたライダーは柵にもたれたまま、目を白黒させて崩れ落ちた。


 周囲のざわめきが一気に大きくなる。今のは偶然ではないと、誰の目にもそう見えただろう。いつもは殴られて終わるはずのグリードが、逆に二匹を叩きのめしたのだから。


 三匹目が歯を剥き、半ば恐怖をごまかすように怒声を上げながら前へ出る。グリードは身構えながら、奇妙な高揚感を抑えられなかった。やれる、いまならやれる。そんな感覚が、朝の空気の中で体の隅々まで満ちていた。


 だが、その瞬間、横合いから強い力で腕を掴まれ、気づいたときには地面へ組み伏せられていた。無理やり押さえつけられているのに、妙に手慣れていて無駄がない。バルグだった。


「調子乗ってんじゃねえぞ」


 低い声が耳元に落ちる。だがそこに以前のような、面白半分の嗜虐の色は薄かった。グリードは歯を食いしばって顔を上げた。


「喧嘩を仕掛けてきたのは向こうです」


「分かってる」


 即答だった。


「じゃあ何で俺を止めるんです」


 そう言った途端、バルグはわずかに力を緩めた。組み伏せたまま、しかし怒鳴るでも殴るでもなく、意外なほど冷静な口調で言う。


「お前、今の自分の立場分かってるか」


 グリードは眉をひそめた。何を言われているのか、一瞬分からない。


「昨日までの雑兵が、一晩で変わって、今朝いきなりライダーどもを二匹のした。そりゃ殴ってきた方は馬鹿だが、ここでお前がそのまま三匹目まで叩きのめしたら、何が起こると思う?組織の論理を、一足飛びでぶっ壊すんじゃねえ。」


 その言葉は、バルグの口から出たとは思えないほど筋が通っていた。確かに自分はまだ何者でもない。たまたま昨日戦果を挙げ、今日少し変わっただけの雑兵だ。そこで下から一気に序列をひっくり返すような真似をすれば、周囲は面白半分のいじめでは済まさなくなる。


 バルグはグリードの沈黙を見て、ゆっくり腕を離した。立ち上がり、周囲のライダーどもを一睨みすると、連中は露骨に目を逸らした。ついさっきまで因縁をつけていたくせに、いまは誰も前へ出ようとしない。

 グリードは立ち上がりながら、バルグを見た。目の前のホブゴブリンは相変わらず傷だらけで、愛想もなく、粗暴そうにしか見えない。だが今の一言で、グリードの中の印象は少しだけ変わった。今まで自分に向けられていた暴力のすべてがそうだとまでは言わないが、その一部は単なる憂さ晴らしではなく、少なくとも周囲への見せしめや、風紀統制の役割を持っていたのかもしれない。そう思うだけの理屈が、今のバルグにはあった。


 バルグはそれ以上何も語らず、短く言う。


「お前のことはガズロック副官に相談する」


 それだけ言い残して、厩舎の奥へ去っていった。

 グリードはその背を見送りながら、昨日までと同じ景色のはずなのに、何かがもう戻らない場所まで来てしまったように思えた。

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