初めてのレベルアップとアイアンソード
草むらを飛び出し、グリードは小砦の外壁へ走る。火と血と悲鳴に掻き消されて、誰もその小さな影に気づかない。壁際までたどり着くと、石の隙間へ指をねじ込み、足をかける。ざらついた石が掌を削り、爪が軋む。以前の自分なら、ここで終わっていた。だが『身体能力上昇(小)』で底上げされた筋力と体幹が、悲鳴を上げながらも体を支えた。
一段、もう一段と登っていく。肩が焼けそうに痛み、前腕も裂けそうだ。脇腹の古傷が嫌な痛みを訴える。だが落ちるわけにはいかない。指先へ全体重を乗せ、足先で石の出っ張りを探り、じりじりとよじ登る。壁の向こうではまだ矢の雨が続いていた。砦の下で誰かが喉を貫かれる音が聞こえる。時間がない。
胸が壁上の縁に届いた瞬間、最後の力を振り絞って体を引き上げる。腕が抜けそうなほど痛み、膝が石へぶつかって鈍い音がしたが、どうにか壁の上へ這い上がった。だが息を整える暇はない。
弓兵は、まさか自分が踏破してきた森側から敵が登ってくるとは思っていないのだろう。視線はずっと下方、バルグたちへ注がれている。弦を引くたびに矢が複数へ分かれ、死を撒いていた。その背は細く、しなやかで、緑の外套が風に流れている。上級弓兵らしい洗練された姿だ。こんな相手には、まともな剣士ですら正面から勝てるとは思えない。
だから、まともにやるつもりはなかった。
グリードの足元には、冒頭の戦闘でゴブリンアーチャーに射抜かれて倒れた砦兵のものと思しきアイアンソードが落ちていた。剣身にはまだ血がこびりついている。人間用の武器だから、ゴブリンの手には少し長い。だが持てないほどではない。グリードはそれを掴んだ。鉄の重みが手に伝わる。木の棒で何度も素振りした感覚が、一瞬だけ脳裏をよぎった。
剣士系統スキル【振り回し】、修練の中でぎこちなくも形になり始めていた動きだった。洗練された斬撃ではなく、鋭く切り込む技でもない。読んで字のごとく、重さと勢いで叩きつけるような未熟な一撃だ。だが背後からの不意打ちとしてなら十分かもしれない。
グリードは息を殺し、弓兵の背へ近づいた。距離はあと数歩のところまで来た。痩せた体が幸いして、足音はほとんど立てていないはずだ。それでも相手は上級職だ。少しでも気配を漏らせば終わる。
あと一歩、そして剣を振り上げる、とその瞬間だった。
弓兵の首筋がぴくりと震え、急にグリーの方を振り返った。
反応が速すぎる。まるで背中にも目があるみたいに、弓兵はグリードの未熟な気配を察知していた。グリードは迷っている暇もなく【振り回し】を放つ。アイアンソードが大きな弧を描いて背後から叩きつけられる。だが、読み切られていた。弓兵は重心を沈めて半身を切り、その一撃を紙一重で避けた。剣先は外套の端を裂いただけで空を切る。
だが、その回避のために弓兵の射撃は止まった。わずか一瞬、ほんの一呼吸にも満たない隙だ。
しかし、それで十分だった。
砦の下から、唸るような風切り音が響き、バルグが投擲した短槍が飛来する。今度は連射に邪魔されず、しっかりと狙いを定められた一投だった。短槍は真っ直ぐに飛び、振り返った弓兵の胸を背後から貫いた。
弓兵の顔が驚愕に固まる。口元から血が溢れ、手から弓が離れる。彼は一歩、二歩とよろめき、それからグリードのすぐそばへ崩れ落ちた。緑の外套が壁上に広がり、その下からじわじわと血が石の目地へ流れ込んでいく。
死んだ。自分が殺したわけではなく、致命傷を与えたのはバルグだ。だが、自分が背後から仕掛けてあの一瞬を作らなければ、槍は届かなかったはずだ。
その瞬間、グリードの耳に声が流れた。
『レベルが2に上がりました。』
内容は、永続スキル取得の機械音声と少し違う。それでも確かに、頭の内側へ直接響くような声だった。そして直後、体の内側から熱いものがぶわっと湧き上がる。筋肉の一本一本へ力が染み込み、息が急に軽くなる。疲労が消えたわけではない。だが、さっきまでの自分よりほんの少し高い場所へ、足場がひとつ上がったような感覚があった。
レベル、この世界にそんな概念があるのか、と考える暇もなく、現実が押し寄せる。弓兵が倒れたことで矢の雨は止み、バルグたちは態勢を立て直して一気に砦の残兵を掃討しにかかった。人間側も善戦はしたが、壁上からの圧倒的な支援を失った以上、人数差は覆せない。グリードも呼吸を整えながら周囲を見渡したが、追撃すべき相手はもうほとんど残っていなかった。
戦いが終わると、ゴブリンたちは獣みたいな手際で戦利品を漁り始めた。箱、干し肉、酒、矢束、金属部品、人間用の小銭などをすごい勢いで掻き集めて回る。砦の維持に必要な人員など前線基地にはない。だから拠点として残すつもりはなく、持てるものだけ奪ってさっさと引き払う。それがこの種の小規模襲撃の常だった。
壁上に残っていたアイアンソードを、グリードは改めて拾い上げた。正直に言えば、こんなものはすぐバルグあたりに取り上げられると思っていた。戦闘中に拾ったものは拾った者の取り分、という不文律はある。だが不文律は、最底辺の雑兵が盾にできるほど固い掟ではない。
砦を出るころ、バルグが近くを通り過ぎた。血と灰にまみれた顔で、いつものように不機嫌そうではある。グリードは内心で身構えた。さっきの戦いで拾った剣を見咎められるか、あるいは遅いだの邪魔だのと殴られるか、そう思った。だが、バルグはグリードを一瞥しただけで、そのまま通り過ぎた。何も言われなかった。
それだけなら、たまたまかもしれないと流せただろう。だが基地へ戻ったあとも、妙なことは続いた。
その日から、バルグはグリードを正面切ってなじることがなくなった。以前なら、顔を合わせれば一つは悪態をつき、気まぐれに腹を蹴るか頭を小突くかしていた男が、まるでそういう習慣を忘れたみたいに何もしない。もちろん、優しくなったわけではない。用があれば命令口調で話すし、視線も相変わらず険しい。だが、露骨な嘲りと日常的な暴力だけが、きれいに消えたのだ。
グリードにとって、それ自体はありがたい変化のはずだった。殴られないで済むなら、それに越したことはない。なのに、落ち着かない違和感だけが残った。
アイアンソードを自分の寝藁の脇へ置きながら、グリードはそのことを考えた。砦の壁上で自分が上級弓兵の注意を逸らした結果、バルグの槍が届いた。客観的にはそういうことになるが、それだけであの男の態度が変わるものなのか。バルグの内心など、考えたところで読めるはずもない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
最底辺のままでも、自分は少しずつ前へ進んでいる。基地では相変わらず取るに足らない雑兵扱いだ。けれど、戦場では初めて明確な戦果に関わり、レベルまで上がった。誰にも見えていないところで積み上げてきたものが、少しだけ現実を変え始めている。
寝藁の上へ腰を下ろし、グリードはアイアンソードの柄を撫でた。粗末な剣だ。だが、これは自分が初めて戦場で掴んだものだった。命を懸けた戦いの中で、自分の手で掴んだ最初の戦利品だ。
その刃に映る自分の顔は、相変わらず醜いゴブリンのままだった。進化もしておらず、牙も、体格も、見た目は何も変わらない。それでも、胸の奥で燃えるものだけは、以前とは確かに違っていた。




