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秘密の特訓と初めての出撃

 それからの日々は、本当に忙しかった。朝から魔犬の世話に追われ、糞尿を片付け、水を替え、餌を運ぶ。その合間に近場の見張りや哨戒へ駆り出される。正式なライダーではないので扱いは雑だが、それでも魔犬へ跨る機会は確実に増えた。しかも、任務の隙間を縫って丘の麓へ通う時間まで作らなければならない。


 それでもグリードは、疲労より充実を感じていた。丘の麓でフローズに会うたびに、全身の疲れが少しだけ軽くなる気がした。


 フローズは相変わらず幼いところが残っていたが、母を失った後に妙な甘えを見せることは少なかった。むしろ、「ぼくはだいじょうぶ」とでも言いたげにしっかり者ぶる節がある。そんなところが、余計に子どもっぽく見えることもあったが。


 グリードは哨戒の途中や短い休息時間を削ってフローズへ会いに行き、その背に乗って周囲を駆けた。最初は以前より乗りやすい程度だった感覚が、日ごとにはっきりした形を持ち始める。フローズが次にどちらへ重心を移すのか、どの瞬間に跳ぶのか、地面の起伏へどう対応するのかが、以前よりずっと自然に分かる。言葉で指示する前に、なんとなく意図が伝わることすらある。完全な意識同調には程遠いのだろうが、それでも今までの魔犬とは比べものにならない。共に行動すればするほど、二人の間にある見えない線が太くなっていくようだった。


 母狼から得た永続スキルの修練も欠かさなかった。剣の適性があると言われたからには、剣を振らねば損だとでもいうように、グリードは人目のつかない場所で木の枝や折れた槍柄を振り回した。最初はひどいものだった。腕の使い方がばらばらで、振り切るたびに手首がぶれ、足の運びもぎこちない。それでも、何度も繰り返すうちに、ほんの少しずつ振るうという動きが形になっていく。フローズを相手に実際の打ち合いなどはできないが、彼の動きを目で追いながら空を切るだけでも、感覚は磨かれていった。


 氷魔法も同じだった。指先に意識を集め、冷たいものを形にしようとする。最初はただ空気が冷えるだけで、何も起こらなかった。それでも諦めずに続けるうち、指先に白い霜が宿り、小さな氷片が生まれるようになった。まだそれを飛ばしたり、刃にしたりできるほどではない。だが、以前の自分なら何も起こらなかったはずなのだ。ごく小さくても、確かに変化がある。


 そこでグリードは新しい発見に辿り着いた。進化しなければスキルが得られないのではない。正確には、進化していなければスキルを獲得できるだけの条件を満たすことが極端に難しいのだ。だが、永続スキルで適性と下地を得ているいまの自分なら、修練を積むことで少しずつその先へ進める。もちろん、進化そのものを条件にしているスキルもあるだろう。だが全部がそうではない。進化できない個体でも、後から獲得できるものがある。昨日より今日、今日より明日、ほんの少しずつでも強くなっていける。それだけで、グリードは胸の奥が熱くなった。


 そんな日々の中で、グリードはある任務に随行することになる。バルグの小隊に従い、人族の小規模な砦を落とすという命令だった。


 バルグから受ける扱い自体は、以前と大して変わらなかった。暫定的な騎乗要員と見なされてはいても、所詮はライダーが補充されるまでの間に使う雑兵でしかない。進化できない出来損ないという評価もそのままだし、日常的な暴力もなくなってはいなかった。厩舎で出会えば腹を蹴られ、返事が遅ければ頭を小突かれる。グリードはそれを受け流しながらも、内心では高揚していた。初めての本格的な襲撃戦だ。哨戒や斥候とは違う、本当に敵の拠点を壊しに行く作戦だ。


 半日ほど歩いてたどり着いた砦は、森の入り口に最近建てられたばかりと思しき、粗末な造りの小砦だった。石と木を組み合わせた防壁は低く、見張り台も簡素で、長く維持する拠点というより前線監視用の臨時施設に近い。砦の周辺にはまだ切り株が残り、急ごしらえで森を開いたことが見て取れた。


 バルグは部下を手際よく配置した。グリードには、砦裏手の森へ回り、援軍が来るか、中の兵が森へ逃げ込んだら角笛を吹けと命じる。荒っぽいばかりの男に見えても、バルグにはきちんと戦術眼があった。退路と援軍を押さえるのは、小規模拠点を落とすときの基本だ。グリードはその命令に従い、森の縁から砦を窺える位置へ潜んだ。


 襲撃は見事にはまった。四方からゴブリンアーチャーたちが火矢を放ち、砦の木組みに火をかける。砦内が混乱し、煙に炙り出されるように飛び出してきた人間を、待ち構えていたホブゴブリン部隊が各個撃破していく。槍、棍棒、粗雑な剣と武器は洗練されていなくとも、奇襲と数で押し切れば十分だった。砦の規模が小さいこともあり、戦況は完全に魔王軍側優勢に見えた。


 やがて、グリードの潜む森の方へ逃げ込んでくる人間も増え始める。そろそろ角笛を吹いて合図すべきだ、とグリードが考えて笛に手をかけた、その瞬間だった。


 森の奥から、言葉にしづらい圧力が押し寄せてきた。足音や匂いではなく、もっと根源的な何か強いものが近づいてくる感覚。フローズと共に動くようになってから、グリードの感覚は以前より鋭くなっていた。特に危険な強者に対する直感は、前よりはるかに敏感になっている。


 グリードは咄嗟に角笛を吹くのをやめ、草むらに身を沈めた。


 次の瞬間、自分の頭上を緑色の影が駆け抜けた。


 それは人間だった。全身を森に溶け込むような深緑の衣装で包み、地面ではなく木の枝から枝へと駆ける。あまりに速く、最初は本当に人影なのか疑ったほどだった。その影は一目散に砦の城壁へ向かった。森の木々を蹴って加速し、その勢いのまま信じがたい跳躍で砦の外壁へ飛び乗る。まるで地面の重さから解き放たれたみたいな動きだった。グリードは息を呑む。あれはただの弓兵ではない。身のこなしそのものが、これまで見てきたどの人間とも違っていた。


 壁上へ降り立ったその弓兵は、一瞬だけ姿勢を落として周囲を見渡し、それからためらいなく弓を引いた。矢は一本ではなかった。比喩でも誇張でもなく、実際に数十本の矢が一度に空間に生じた。夜空に向かって放たれた矢は弧を描き、次の瞬間には眼下のホブゴブリンやゴブリンアーチャーへ雨のように降り注いだ。上級弓兵が使用するスキル『五月雨』だ。


 ゴブリンたちの悲鳴が上がる。矢はただ多いだけではなく、一本一本が正確に急所を狙っていて、盾もない雑兵たちはもちろん、ホブゴブリンですら避けきれない。肩を貫かれ、喉を裂かれ、腿を射抜かれて転ぶ。火矢で優勢を築いていたゴブリンアーチャーたちは、今度は自分たちが一方的に射抜かれる側になった。


 戦況は一気にひっくり返った。


 先ほどまで各個撃破されていた人間兵たちは、その隙に砦の内側へ引き返し、残っていた仲間と合流して持ち直していく。対してバルグの小隊は、壁上からの制圧射撃で動きが止まった。前へ出れば射られ、下がろうとしても隙間を狙い撃たれる。森に逃げ込む人間を狩る余裕など一瞬で消え失せた。


 バルグはさすがに状況の悪化を理解したらしく、怒鳴り声を上げながら指揮を立て直そうとする。だが上から降る矢は容赦がない。こちらが身を晒した瞬間に放たれる連射の圧で、部下たちは次々と動きを止められた。


 元凶はあの弓兵だ。グリードにもそれは明らかだった。


 バルグもそう見たのだろう。砦の下へ転がっていた敵兵の短槍を拾い上げ、壁上の弓兵へ投げつけようと身構える。ホブゴブリンへ進化しただけあって、腕力も投擲力も並みのゴブリンとは比較にならない。だが相手もさるものだった。矢が絶え間なく降り注ぐせいで、狙いを定めるための一瞬すら与えられない。短槍を引き絞ろうとすると別の矢が飛び、姿勢を崩される。これでは決め手にならない。


 このままでは全滅する。


 その予感は、冷たい確信としてグリードの背中を撫でた。草むらへ潜んだまま、角笛を吹いている場合ではない。もう援軍を呼ぶとか逃走兵を知らせるとかいう段階ではなく、ここにいる連中そのものが壊滅しかけている。ならどうする。正面から出れば自分も射殺される。森の中に逃げるか。いや、それでは何も変わらない。


 そのとき、グリードの目は森に面した外壁の粗い石積みへ向いた。砦の正面側は簡単には登れないよう整えられていたが、急造りの裏手は雑だった。石の隙間も多く、ところどころ木材の補強が飛び出している。普通のゴブリンには握力も脚力も足りないので、登るのは無理だ。だが、今の自分なら何とかなるかもしれない。


 考えるより先に、体が動いていた。


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