第8話 神聖な儀式
遠くの方で、男子達が騒ぐ声が聞こえてくる。
1年生かな。2年生に上がると、急に色気付き始めるから、子どものように騒ぐことができるのは今だけだよ。
間が空くほど、断られる気がして怖かった。
なーんちゃってと今、言うことができたら、何もなかった頃に戻れるだろうか。
いや、無理だ。
「——風香と?」
「う、うん」
「うーん」
「……」
即答してくれないのがリアルだった。まーちゃんは今、頭の中でどんなことを考えているのだろう。
一瞬でも私のことを気持ち悪いと思っただろうか。
血の気が引く感覚がする。だけど、頭はやけに冴えていた。
「まぁ、いいか。……しよっか?」
「えっ。いいの!?」
「って、風香が言ったことじゃん!」
まさか、OKされるとは思っていなかった。
肩の力が抜けて、コンクリートに手がついた。
「さっきから風香、ムスッとしてるじゃん? "それ"をしてさ、元気になってくれるものなら、安いもんだよ」
まーちゃんはなんていい子なんだろう。
私の憂鬱さに気付いてくれていた。
彼女が素直な心で向き合ってくれるなら、嘘をつきたくなかった。
「——ごめん。怒っていたのは、まーちゃんが群青さんの話ばかりするから。……嫉妬してたの」
「えっ。本当? 何それ。風香、かわいすぎるんだけど……」
「もー。からかわないでよ」
「ちゃかしてないよ。そんな顔、真っ赤にしちゃってさぁ」
まーちゃんが私の頬をつんとつついた。彼女には何もかも見透かされてしまうんだ。
「Dキスをする代わりにさ、わたしのお願い聞いてくれる?」
「な、何?」
すごいことを言われると思った。
だって、Dキスをしようという、すごいお願いを先にしているのだから。
反射的に身構えてしまった。
「……わたしのペースでいい? 何もわからないからさ、怖くて」
「うん。もちろんだよ」
まーちゃんは、かわいいお願いをした。今すぐ抱きしめたくなった。
だけど、我慢。
「えっと。じゃあ、いつする? 今から掃除の時間じゃん」
彼女が周りをキョロキョロ見た。
そっか。今がするベストタイミングじゃないんだ。
もう少ししたら、同じ班の子達が来ちゃうしね。
でも、時間を置いたら、まーちゃんとキスなんてできない気がした。
「って、風香。なに目ぇ、閉じてるの?」
私は苦肉の策に出た。
もう準備万端で待つポーズを取ればいいんだと。
「もー。仕方ないなぁ」
まーちゃんは、ぽりぽりと頭をかいた。なんで見えているのかというと、こっそり薄目を開けているからだ。
「……するからね」
彼女は私の頬をガッと掴んだ。少し痛い。心臓が速くなる。
今度こそ私は完全に目を閉じた。暗闇であるのに怖くない。
目の前にまーちゃんがいるから。
唇に、ふにっと柔らかい感触がした。息遣いから、相手は100%まーちゃんであることがわかった。
うわぁっと、気持ちが昂る。
愛しのまーちゃんと、こんなに近くにいるなんて。夢みたい。
それは大人がいう幸福というものに思えた。
あっ。
気を抜いていたら、唇をぬるっとしたものが触れた。
不意をつかれたら、そのまま口の中に入って来た。舌であることには1秒遅れて気が付いた。
まーちゃんはあんなに怖がっていたのに。いとも容易く私との境界線を超えてくる。
たどたどしく自分の舌を絡ませると、胸の奥が震えた気がした。
まーちゃんが、ギュッと手を握る。汗をかいていた。
私との行為によって体温が上がったのかなと考えると、同じように熱くなった。
「んっ……」
「あぅ……」
私が先に吐息を漏らしたら、まーちゃんが応えるように続いた。そんなところも嬉しくなってしまう。
初めてのDキスは気持ち悪いものではなかった。
だけど、心に受け止めるまで時間がかかる気がした。
未知なる部分に対して、気持ち悪いと思う人がいることは、何もおかしくないのかもしれない。
私もまーちゃんに触れたい。群青さんがしていたみたいに、ギュッとしたい。
そっと空いた手で、彼女の腰を触ろうとしたら、
「伏せて」
と、言われてしまった。
えっ。
答える前に、彼女に押し倒されてしまう。
体はコンクリートに叩きつけられて痛かった。だけど、頭はまーちゃんが手を入れてくれたから何ともなかった。
下から見る彼女は、相変わらず可愛かった。
口元から唾液が垂れているところに気付いて、ドキッとする。
「今、ミツセンがいたからさ」
「おっけ……。ありがとう」
ミツセンは、担任の三石先生のことだ。筋トレが趣味な、体育教師。
悪いことをした生徒は、みんなの前で怒鳴る、怖い先生だ。
こんなDキスをしているところを見られたら、なんて言われるか……。
懸命な判断だと思った。
「ごめん。この体勢やだよね。ちょっと一旦、階段の下に行こう?」
「う、うん」
Dキスは強制的に終了となってしまった。
だけど、まーちゃんが先に立って階段の下に行く時、私の手を取ってくれたのが、まだ繋がっているみたいで嬉しかった。
「はぁ……」
「びっくりしたね」
私たちは隣に並んで座った。
コンクリートは先ほどよりも湿っていて、日当たりが悪いのがわかった。
「もうミツセンいないみたいだよ」
まーちゃんは身を乗り出して周囲を確認してくれた。その声に安堵する。
でも、だからと言って、もう一度アレをする雰囲気ではなかった。
「——風香、どうだった?」
「えっと」
まーちゃんが隣に座ると、すぐに私に感想を求めてきた。
正直、上手く伝えられる気がしなかった。まだ頭が混乱していた。
何故か、まーちゃんの顔を直視することができなかった。
「言ってよー」
彼女は肘でつついてくる。
私はまーちゃんにバレないように浅い呼吸を繰り返していた。
「……わたしはさ、Dキスってそれほど気持ち悪くないかなって……思えたかな」
彼女は、たどたどしくも素直に感想を教えてくれた。
「わ、私も……」
先に心の内を教えてくれると、同じように正直になることができた。
人って鏡だ。
「……初めてのDキスが、まーちゃんで良かったって思ったよ」
嬉しい言葉を受け取るだけじゃ足りなくて、溢れる想いを彼女に届けたくなったのだ。
「——嬉しいな。じゃあさ、わたしのこと一生忘れられないね?」
まーちゃんはくったくない顔で笑う。まさにその通りだよ。
私は彼女から離れられる気が、まったくしなかった。
「——忘れられるわけないよ」
しばらくの間、二人で見つめ合った。
周りの音が何もかも聞こえなくなった。
私の世界にあるのは、まーちゃんだけだった。
どちらからともなく唇を重ねた。今度は舌を入れることはしなかった。
その行為は神聖な儀式にも似て、幼心に強く残った。
もう戻れないと本能的に悟った。だけど、知らなかった頃には今さら戻りたいとは思わなかった。




