第42話 希望
海の中、彼女に体重を預けていた私は、安定感を一瞬で失った。
どうやら彼女は、沈黙を肯定と捉えたようだった。
麻樹は私から離れると、首に手を伸ばした。
えっ、と思ったのも束の間、すぐに力が込められた。
冗談じゃないと思う気持ちと、麻樹に始末してもらえるなら、もう思い残すことはないという感情の間で揺れた。
——思えば、彼女と出会ったことで運命の歯車がすべて狂った。
国語で麻樹の"地球温談化"の誤字を指摘しなければ良かった。
そう思うのに、タイムスリップで戻ったら、私はきっと何度でも彼女に指摘してしまうだろう。
麻樹に殺されるのも悪くないなと思った。
だけど——。
微かに残った気力を振り絞り、私は麻樹の頬に触れた。彼女の体が震えるのがわかる。
そのまま力任せに引っ張って、私は麻樹にキスをした。しょっぱいのは海水のせいだろうか。
一生忘れられないキスになったのは確かだった。
「はぁ……」
麻樹の手がふっと緩み、後ろへと引いた。
私がそのまま彼女に体重を預けると、ゆっくりとした動きで背中から海に倒れ込んだ。ぼしゃっという音とともに、水しぶきが上がる。
麻樹は顔を出さなかった。すぐに助けなきゃという気持ちと、私の苦しみを味わえという邪心がせめぎ合った。
手を出すのが少し遅れた。勢いよく引っ張り上げると、麻樹は苦しそうだった。
——その歪んだ顔にときめきのようなものを覚えてしまう。
「醜いね」
私はひどい言葉を麻樹に浴びせた。彼女は肩で息をする。
私を掴む手が強かった。藁にもすがる気持ちとは、こういうことを言うのかもしれない。
「——でも、好きだよ」
私は生の実感を楽しんでいる麻樹に、もう一度キスをした。
今どこにいるのかわからない。苦しいのは唇を重ねているからなのかも。
海中をゆらゆらと漂う。
私たちは苦しみの中でしか、幸福を感じられない。これこそが生きている醍醐味なのかもしれない。
このまま死んでも構わなかった。
願わくば、麻樹も道連れにしたい。
でも、先に死ぬのは私に譲らせてね。
遠くの方でカモメが鳴く声が鮮明に耳に入った。月だけが私たちを見ていた。
◇
目が覚めたら、白い天井だった。家じゃない。薬品の匂いが鼻を掠める。
体はゆらゆら揺れていて、今も海の中にいるようだった。
カーテンの擦れる音がする。お母さんと茂雄さんが私を見て「あっ」と声を出した。目にはクマができていた。
そっか。私、確か、麻樹と——。
すべての記憶が鮮明に戻ってきた。
私は麻樹と押し問答の末、海に沈んだのだ。一時、死を覚悟したけれど、なんとあっけなく生きていた。
「ねぇ。麻樹はどうしたの?」
そう二人に聞いたら、目を逸らされた。
嫌な予感が体を巡った。
えっ。まさか。そんな——。
脈が速くなる。ゾッと鳥肌が立った。
私が何かを言おうと口を開けたら、
「無事よ」
と、お母さんが言った。
ホッとしたのも束の間だった。
「麻樹の意識はある。ただ、僕たちのことは覚えていない」
茂雄さんが淡々とした口調で言った。
「……」
「——記憶喪失なんだ」
麻樹の顔がぐにゃりと歪んだ。
私は最初、茂雄さんが何を言っているのかわからなかった。
落ち着いて話を聞くとこうだった。
先に麻樹が目を覚ましたので、私と海で何をしていたのか、聞き取ろうとしたらしい。
しかし、辻褄が合わない部分があったり、過去の記憶が抜けていたりすることに気づいたらしい。しまいには、自分が今、何歳であるかもわからないということだった。
——麻樹は同じ病院の中にいた。彼女は個室のベッドで、一人外を見ていた。
横顔がとてもきれいだった。
麻樹との面会に、お母さんと茂雄さんも付き添うとのことだったけど、私は断った。まずは、一対一で向き合いたかった。
記憶喪失なんて——あるわけない。
私は勇気を出して、麻樹の元に向かった。
「麻樹……」
「……」
彼女とばっちり目が合った。だけど、ぼんやりしていて、眠そうに見えた。
「私のことわかる?」
「えっと……」
麻樹は気まずそうに俯いた。一生懸命、思考を巡らしているように思えた。
「……どなたですか?」
顔を上げて、私を真っ直ぐに見つめてそう言った。曇りなき眼だった。
彼女が嘘をついているようには見えなかった。
「わ、私は……関内、いや楠木風香って言うの……」
はっきり言って、動揺していた。
まさかあの海でのもみくちゃによって麻樹の記憶が消えているのだから。
頭を打ったのだろうか。悪いことをしたな。
心の奥底から、後悔の感情が込み上げてきた。
「……へぇ。わたしと名字が同じなんですね」
「あぁ。うん。私たち姉妹なの。血は繋がっていないんだけどね」
「わー。親同士が再婚したってやつですかね? なんか新鮮です! 歳も近そうですね?」
「……うん。同い年なんだ。麻樹の方が生年月日が遅いから、私がお姉ちゃんっていうことになってるんだけど……」
「嬉しい! じゃあわたし達、助け合うことができますね」
麻樹はとびきりの笑顔を私に向けた。
姉妹であるというのに敬語を使っている。親近感があるのに、程よい距離があった。
今まで彼女に感じたことのない想いが湧き上がる。
これは安心感というのだろうか。
私はホッと、一息をつくことができた。
麻樹。麻樹。——私のかわいい義理の妹。
そうだ、彼女と性的な接触を持ったことから、私たちは道を外すことになったんだ。
目の前の麻樹は純粋無垢で何も知らない。
まるで神様が用意してくれたかのような、理想的な再会だった。
私たちは今度こそ、上手く姉妹になることができるのだろうか。
絶望しか見えなかった中で、私はひとつの希望を見出すことができた。
今度こそ、上手くやろう。もう海に入らなくてもいいように——。
群青さんや三石先生、それに屋敷のことで、彼女に害がいくことがあれば、すべて私が守ろう。命をかけてでも。
麻樹の天使のような笑みを見ながら、一人固い決意を結んだ。




