第41話 浸かる
「……なんでもない。じゃあ、そういうことだから」
『……ねぇ。カモメが鳴く声が聞こえる』
麻樹は風を切り裂くように言った。
『——今、海にいるでしょ』
「っ……」
怖くなってしまい、私はすぐに電話を切った。
彼女に言い当てられてゾッとした。息が乱れていた。
——私は、普通になりたかった。
中学の頃、ディープキスに興味を持っていたあの一瞬が、一番幸せだったように思う。無垢とは、幸せの象徴なのだ。
段々と日が落ちていく。周りには誰もいなくなった。
不思議とお腹は空かない。ずっとここにいたかった。
私は、群青さんと三石先生のキスを思い出した。図書館で、絡み合うように抱き合い、完全に二人だけの世界に入っていた。
私と麻樹も同じだった。人目も気にせず、キスをした。恋は盲目で、刹那に生きる甘い魔法のようなものなのかもしれない。
次に屋敷のことを思い出した。高校に入って初めてできた友達。元気がない時、快活な彼女に、私はよく助けられた。屋敷みたいになりたいなと思ったこともあった。
まさか、彼女が自殺未遂をした過去があるとは思わなかった。人の痛みをわかっていたはずの私は見抜くことができなかった。
最後に麻樹のことを思い出した。私の最愛の義理の妹。
漫画とかで親同士がくっついて、元々の友達が兄弟になるような展開は、私も何度も見たことがあった。
振り回されることも多いけど、みんな、なんだかんだ幸せそうにしているのが印象的だった。
私だって一瞬の間は、麻樹と家族になれて良かったと思った。
だけど、近すぎた関係は駄目にすることもある。心が壊れそうになった瞬間は、何度もあった。
——未来が見えない。
ふと顔を上げると、暗い海が目に入った。身震いするほど、美しかった。何もかも飲み込んでしまいそうな黒だった。
こんなに遅いと、お母さん達は心配しているだろうか。スマホの電源はとうに切っていた。
私は、一歩足を踏み出した。
砂が足をもつれさせる。それ以上は、行ってはいけないと引き留めるような重さだった。だけど、意地になるように、私は前へ進んだ。
——屋敷は死ぬ瞬間、苦しかっただろうか。
話を聞いてもきっとわからない。だって、同じ体験をしていないから。
気づけば私は波打ち際まで来ていた。靴と靴下を脱いで、素足で海に入ってみる。カバンなんかは、そこら辺に放り投げた。
海水は冷たかった。波が足に絡みついて、私を掴んで離さなかった。
一歩ずつ勇気を出せば、そのうち楽になるのだろうか。胸は高鳴っていた。
「——麻樹と結婚したかった」
ふと、中学の時、思っていたことが口をついた。
もう最後だと思って、自分に嘘をつきたくなかったのだろう。
周りの大人も、テレビの芸能人も、好き合う二人はほとんど男女だった。
何故、同性同士のペアはいないんだろうとずっと疑問に思っていた。
それは日本は男女でしか結婚ができないからという、私なりの結論に辿り着いた。
世間的に認められた関係なら、堂々と胸を張って隣に立っていられる。
麻樹と結婚できる世界線だったら、私は幸せになれたのだろうか。
現に今だって、同じ名字を重ねている。身体の関係だってあった。
だけど、とてつもなく苦しかった。もしかして、結婚が私を救ってくれるものではないのかも。そう気づいた時、一つの希望がまた消えていた。
波が膝まで浸かる。
かつて人類の祖先は海にいたという授業の話を思い出した。
私も帰っていいのかな。ふふっ。きっと、私のふるさとは海の中なのだ。
波は胸の位置まで上がってきた。先は見渡せないほど真っ暗だ。
なんだかおかしくなって、笑いが込み上げてきた。もう一歩、足を進めようとした。
「ふうかーーーー!!!!!」
そしたら、後ろからけたたましく大きな声がした。
振り返ると、遠くに動きが激しい麻樹がいた。
あっと、足を滑らせると、口の中に海水が入ってきた。
暗いから、どっちが前で後ろなのかわからない。苦しい。
私は初めて死を意識した。体をばたつかせる度に、自分が生きたいと思っていることがわかった。
「——何やってんのっ!」
気付いたら、麻樹の顔が近くにあった。私の手を掴み、一生懸命、引き上げようとしてくれている。
彼女は私よりも背が高い。とても、頼もしく感じた。
「……うっ。……ごほっ」
苦しくて、むせ返る咳が止まらない。
麻樹の服はびしょびしょだった。私をそっと優しく抱き寄せる。
真っ暗な世界に、ただ二人きりだった。彼女越しに夜空を見上げたら、薄い半月がぼんやりと浮かび上がっていた。
「——生きていてよ」
「……」
麻樹は、手に力を込めた。
きっと彼女は、私が自殺しようと思っていたのだ。
半分ハズレで正解だった。
麻樹が苦しみから救ってくれたら、自分が本当は生きたかったことを知った。
「離して……」
だけど、私は乱暴な言葉でしか彼女と繋がれなかった。
「やだ」
麻樹は食い下がる。
そんな風に言われると、引っ込みがつかなくなってしまう。
どこまで行っても、私は女のままだ。
「離してよ」
「じゃあ、ここで今わたしに殺される?」
麻樹の目は笑っていなかった。本気だ。




