第4話 結婚指輪
「薬指だ」
「えっ?」
「風香が噛んだところ」
「はぁ」
「なんか、歯型が指輪みたいになってるね」
確かに。麻樹の言う通り、ギザギザの痕が指輪を付けているようにも見えなくなかった。
いやいや。今そんなこと感心している場合じゃないから。
「——謝らないから。勝手に口の中に手、入れないでよ」
「別に良いよ。謝罪なんか求めてないもん。風香が噛みたいから噛んだんでしょ? 責めないって」
なんか話が噛み合っていない。っていうか、私が悪いみたいになってない!?
本当にムカつく。
「ねぇ。風香の指も噛んでいい?」
「どうして、そういう思考になったの?」
「なんか、わたしの指だけ、結婚指輪があるのって悲しいじゃん。風香の指にもあった方が、わたしとしても嬉しいし」
「馬鹿じゃないの? 気持ち悪いって」
「……」
泣くかなと思った。さっきから私は麻樹に敵意がむき出しだ。
気持ち悪いという言葉は強力だ。存在を否定する力を持っている。その言葉を私は自分の意思を持って、麻樹に使った。
「——もっと言ってよ。風香が思っていること、全部ここでぶちまけてよ」
「……」
今度は私が黙る番だった。彼女はちっとも怯えていない。堂々とした態度で私と向き合っている。
麻樹に言いたいことか。
例えば、私の前から消えてよ。義妹になんかならないでよ。
私の知らない場所で知らないままに生きていてよ。私の人生に踏み込んでこないでよ。
なんて言ったら、悲しむだろうか。
目の前にいる相手に罵倒できるほどの強い精神力は、私には持ち合わせていなかった。傷つけることは十分にわかっているから。
「何も言いたいことなんてないよ」
軽くはぐらかしたけど、麻樹は何も突っ込んではこなかった。
もう今度こそ、私が予備室にいる理由はない。立ち上がって、入り口に向かう。
ドアを開けて、最後に一度だけ、彼女に視線を向けた。
驚いた。麻樹が泣いていたからだった。透明な雫が、赤い頬の上を伝っていく。泣き真似とは到底思えなかった。
先ほどの、私の目から流れ落ちたものとは、明らかに毛色が違っていた。
純粋に綺麗だと思ってしまった。かける言葉が何もない。
私は、そのまま予備室を出て、2階にある自分の部屋に向かった。
ドアを閉めた時、安堵の声が漏れた。そのまま扉にもたれかかるように座ると、心臓がバクバクいっているのが体の振動でわかった。
私と麻樹は中学の頃は友達——いや親友だった。いつも一緒にいた。しかし、あることをきっかけに、疎遠になってしまった。
私からすればもう二度と会いたくない人だった。
それなのに、なんの因果か、麻樹と名字を重ねることになった。これから、一つ屋根の下、共に生活を送らなくてはならない。
仲違いする前だったら、嬉しくて仕方なかったことだろう。だけど、今の私からすると、覚めない悪夢を見ているかのようだった。
誰か私を救ってほしい。
何の信仰もしていないのに、いるかわからない神にすがるほど、私は弱気になってしまっていた。
◇
部屋の中にある段ボールを、荷解きをしていると、少し気持ちが落ち着いた。服、勉強道具、画材などを定位置となる場所に置いていく。
黙々と一つの作業に没頭していると、現実逃避できて、良いリフレッシュになる。何もしないでウジウジ落ち込んでいる方が、自分で自分をネガティブな感情に引きずり込んでしまう。長年の経験から私が知っていたことだった。
でも疲れたな。ちょっと休憩しようかな。
机の前にある椅子に腰を下ろした、その時だった。
——ピーンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
最初、お母さんと茂雄さんが帰ってきたのかなと思ったけど、待てど暮らせど、誰も家に入ってくる気配がない。あれー。
宅配便かなぁ。
不思議に思った私は、1階に行き、インターホンを覗いてみた。
『関内ー。いるー? やっほー。遊びに来たよー』
「屋敷!?」
モニターに映っていたのは、高校の友達の屋敷姫萌だった。小麦色に焼けた肌に、八重歯がキラリと光っている。
お母さんが再婚するにあたって引っ越すことを、あらかじめ彼女にだけは伝えていた。前のアパートよりも、家同士がグッと近くなったことを、二人で喜びあった。
「ちょっと待っててー」
でも今日来るなんて聞いてない!
屋敷は明るく元気で、猪突猛進なところがある。思い立ったら、すぐ行動に移す子だ。
さっそく送った住所を頼りに来たのかな? もー、あまのじゃくで憎めないんだから。
玄関のドアを開けると、白い袋を持った屋敷がニコニコ顔で立っていた。
「ハロー。関内おつかれー! これ、引っ越し蕎麦なんだ! 良かったら、みなさんで美味しく食べてー」
「わー。ありがとう!」
彼女の好意をありがたく受け取った。
「その蕎麦さー、ネット界隈でも話題のブランドなんだ! 実際、ウチも食べたけど、ほっぺた落ちそうになったよー。てか、落ちた!」
「あはっ。本当? ほっぺたの再生早すぎるでしょ。楽しみだなー」
屋敷は無邪気でかわいい。突然の訪問には驚いたけど、癒されたのも事実だ。
ショートカットのてっぺんに寝癖が付いていたので、寝起きかなとも予想してみる。
「えっと、立ち話もなんだからさ。家に上がっていく?」
「わーい。実は中めちゃくちゃ見たかったんだー。お邪魔しまーす」
屋敷はサンダルを脱ぎ捨てて、うちに上がった。粗品を貰った手前、そのまま返すのは気が引けたのだ。
……ここは、私の家でもあるから別に良いよね?
屋敷をリビングに通して、先ほどまで私が座っていたテーブルの椅子に座らせた。
引っ越し蕎麦は乾麺ということで、そのままキッチンカウンターの上に置いておいた。
「ごめん。今、水しかないや」
冷蔵庫を開けてみたけど、空っぽだった。これじゃ、客人をもてなすことができない。
「大丈夫! ウチ水、大好きだから!」
屋敷が手を挙げてアピールをする。何それ。おかしくて、少し笑ってしまった。
そしたら彼女も、つられるように頬を緩ませた。
二つのガラスのコップに水を注ぎ、テーブルに持って行こうとした。氷もないけど、大丈夫かな。
そーっとこぼさないように、足を忍ばせる。顔を上げたら、なんと——目の前に麻樹がいた。
音もなく、突然だったから、思わず「わっ」と声が出てしまった。
「……ねぇ。この子、誰?」
麻樹が屋敷を指さした。眉をひそめていた。




