第3話 頬と指
「ねぇ。そういうタチの悪い冗談やめてくれる? 不愉快なんだけど」
はっきりと言うことができた。
私は麻樹に強気になることができた。
手にはじっとりと汗をかいていた。悟られないように、さらに強く拳を握る。
「——謝らない」
彼女は私の目を見ながら、冷静に言った。
背中が冷たくなる。ああ。駄目だ。
どんなに彼女に強気に出たところで見破られてしまう。自分が弱いということを、否応でもなく認識させられてしまう。
「風香、わたしのことまだ怒っている?」
麻樹は境界線を、いとも容易く飛び越えてくる。
気づいたら、私の内側にいる。心をかき乱すくせして、フォローを何もしていかない。
「うん。怒ってるよ」
気を抜いたら、倒れてしまいそうだ。早くこの場を去りたい。
だけど、私にだけ重力が何倍にも強く働いているみたいに、クッションから腰を上げられなかった。
「——麻樹のこと、もう顔も見たくなかったもん」
彼女の息が浅くなった気がした。
本音を口にしたら、心が軽くなった。気持ちがスカッとしたというのかな。
でも、同時に罪悪感も湧き上がる。
私と麻樹は中学校が同じで仲が良かった。でもそれは過去の話。
私が高校を受験する時、あえて地元から少し離れた学校を選んだ。麻樹と縁を切りたかったからだ。彼女を感じ取るものから、すべて解放されたかった。
それなのに、こんな、家族になってしまうなんて。
運命のイタズラにしては、できすぎている。笑えない冗談のようだった。
「——ひどいね。でももう離さないよ」
麻樹は口元に手を当てて、優しく微笑んだ。その瞳には、濃い感情が込められているように見えて、鳥肌が立った。
「は……」
かろうじて、薄い声が漏れた。隣にいて欲しい時に、彼女はいなかったのに。なんで今さら。
麻樹が、おもむろに立ち上がった。スラリと伸びた足が視界に入る。一歩ずつ近づき、距離を詰め、同じ目線の高さにしゃがんだ後、私の手を取った。
「そんなに憎いならさ、わたしのことぶったらどう?」
「えっ?」
「意外と、清々するかもよ」
麻樹はそう言うと、私の手を自分の腕にぺちんと当てた。
予備室には無機質な音が広がった。
私が何も言わなかったからか、彼女は数回、同じことを繰り返した。力を入れていないのに、勝手に手の動きを操られるのは、良い気分じゃなかった。
軽く叩いているだけだから、きっと麻樹は痛がってはいないだろう。だけど、人を叩いたことがない私は、微かな申し訳なさだけを感じていた。麻樹が勝手にしているのだから、遠慮する必要なんてないのにね。
「全然、清々しないんだけど」
「そう」
私の言葉を合図に、彼女は手を解放してくれた。もしかして一生、掴まれたままなのではないかと思ったから、ホッとした。
返された私の手は、なんだか自分のものではないように思えた。予想外のことで驚いたからか、手汗も引いていた。
——パチン。
顔を上げると、麻樹が自分で自分を叩いていた。音から察するに、思い切りだった。
この子は、何をやっているの?
頬がじわじわと真っ赤に染まっていく様が、痛々しかった。
——パチン。
何も口を聞けずにいると、今度は左頬を叩き始めた。
「っ……。やめて」
私が叩かれているわけではないのに、目の前で繰り広げられている光景は、無視できなかった。
私には麻樹の気持ちがわからない。
しかし、彼女の動きは止まらなかった。
——バチン。
「何してるの!」
両手で頬を壊すかのように全力で叩いている麻樹を見過ごすことができなかった。
私は咄嗟に、彼女の両手を掴んでいた。
痛くないのだろうか。いや、聞かなくても痛いのがわかる。頬は先ほどよりも、ずっと赤みを増していた。
目が合うと、彼女の動きも静止した。
「やっと、わたしを見てくれたね」
麻樹が目を細めて無邪気そうに笑った。時が止まったような気がした。
それは中学の時、何度も見た覚えがある表情だった。
後ろに見える壁も、新品のゲームも、何もかも視界から消えていた。私の心は、中学時代に戻ってしまったかのようだった。
「あっ……」
何か言おうとして口を開いたら、バランスを崩して、床に手をついてしまった。クッションの滑りが良く、そのまま後ろに傾れ込んでしまう。
さすが新築同然の家だ。フローリングがピカピカしていた。
「いたた……」
目を開けたら、麻樹が私に覆い被さっていた。もしかして、助けようとしてくれたのだろうか。
今の私には確認する権利はなかった。
彼女が先に退かないと動けない。
「麻樹、邪魔」
「……」
しかし、一向に動く気配はなさそうだった。ぴくりともしない。
「ねぇ」
重苦しい気持ちになっているのには、もう一つ理由があった。
私の顔の近くに彼女の手が添えられていたからだ。華奢な指が頬の上を這っている。くすぐったい。
子猫のヒゲのような感触だった。
「うぁ……」
気持ち悪い。
麻樹は何を思ったのか、私の口の中に指を入れてきた。塩気が混じった味がする。
かつて彼女の家で嗅いだことがあるような匂いが体いっぱいに広がった。
この子、やっぱりおかしい。
麻樹の指はどんどん深く入ってくる。彼女の顔は伏せているから、今どんな表情をしているのかはわからない。
舌の上を触って、さらに奥へと進もうとする。ぴちゃっとした、滑り音が耳に届いた。
何してるの。うぇ。あっ。ヤバい……。
吐きそう。
こいつ、本当に頭がおかしい。
私は麻樹の指を勢いよく噛んだ。
もうこれ以上は、私の中に踏み込まないでという意図を込めて。
「……っ」
彼女は薄い吐息を漏らした。私が口を開けたと同時に、指を引っ込めた。
そのまま勢いよく麻樹の体を押して、起き上がる。
何も悲しくないのに、目のふちには涙が溜まっていた。まばたきをすると、雫が一つこぼれ落ちた。
彼女の指を見ると、ぬらりと湿っていて、噛んだところが赤くなっていた。生々しい。
息が上がる。




