第39話 彼女の愛がとても怖かった。
「……風香、どこにも行かないでよ」
「行かないよ。ここにいるよ」
「あの子に体なんか触らせないで……」
「うん。触らせないよ」
私たちはオウム返しのようなやり取りをする。
麻樹は精神年齢が幼くなってしまったかのようだった。服の裾をギュッと引っ張って、肩に顔を押し付けてくる。
彼女が私のために泣いてくれるところを見ると体が熱くなった。
結局、茂雄さん達が帰ってくるまで、二人でずっと抱き合っていた。
窓の外が暗くなるにつれて、麻樹の態度も落ち着いてきた。
——私は屋敷にフォローする連絡を入れるのを、すっかり忘れてしまっていた。
月が満ちる。
その日の夜、夢を見た。やけにリアルで、残酷な夢だった。
それは、屋敷が私に首を絞められたことを学校中に言いふらす夢だった。
——首に手をかけたのは麻樹なのに。
屋敷は、顔面蒼白で訴えるものだから、学校中のみんなは簡単に信じてしまった。
私は校内を歩くだけで、後ろ指をさされるようになった。まるで中学の時のようだった。
また私は肩身を狭くして生きていかないといけないのだ——。
——息を切らして起きた時、まだ部屋の中は暗かった。
隣には当たり前のように麻樹がいた。
今日はスヤスヤと寝息を立てている。先ほどまで情事に溺れていたはずだった。
「今の夢、正夢になりそう……」
そんな予感があった。
屋敷は今日のことをきっと怒ってしまっただろう。殺されるかもと、身の危険を感じただろう。
——明日から笑いかけてくれないかもしれない。
それか、麻樹と姉妹を辞めたほうがいいとまで言ってくるかも。
こんな夜更けに、屋敷に連絡を入れることはできなかった。
目を閉じても、再び眠気は訪れなかった。
私はついに朝まで一睡もすることができなかった。
◇
教室に入る時、今までになく緊張した。世界が変わってしまったかと思ったから。
だけど、自分の席につく前、クラスメートの子が挨拶してくれた。いつも通りの朝だった。
変な噂は広がっていないことを知り、ほっと息をついた。
——屋敷の姿はなかった。
彼女のことだ。寝坊でもしたのだろう。もう少ししたら、嫌でも顔を合わせることになる。
その時、私は屋敷と向き合わなければならない。
ドキドキしながら席につき、親友が来るのを待っていた。
——だけど、待てど暮らせど屋敷は現れなかった。
どうしたんだろう。私は少しだけ心配になる。
——結局、その日、屋敷が登校してくることはなかった。
担任の先生がHRで、屋敷は具合が悪くて学校を休んだということを伝えた。
お見舞いに行こうかと思ったけど、やめた。今日は大人しくしておいた方がいい気がする。「大丈夫?」という連絡だけを入れておいた。返信が来ることはなかった。
——次の日も、屋敷は学校を休んだ。
何かがおかしい。風邪が長引いているのだろうか。
私の気持ちはソワソワと落ち着かなかった。
——その次の日も、屋敷が登校してくることはなかった。すかさず連絡してみたけど、やはり既読すらつかない。
私は彼女が心配だった。
「——みんな、落ち着いて聞いてくれ」
帰りのHRの時間のことだった。担任の先生が怯えた目をして、教室に入ってきた。
散り散りになっていたクラスメート達は、それぞれ自分の席に戻った。
明らかに空気が違った。
だけど、あくびをする者、隠れてスマホをいじる者など、普段通りに自由に過ごす子も多かった。
私は先生から目が離せなかった。
「——屋敷姫萌さんが亡くなりました」
……えっ。
一斉に、教室内がざわついた。みんなの意識は一つの空いた席に向かっていた。
「……詳しいことは今お話できません。とても残念で悲しい出来事です」
先生の目尻には涙が浮かんでいた。
えっ。嘘。
なんで。どうして。
だけど、先生が嘘をついているようには見えなかった。
混乱する頭をよそに、屋敷が家に来た時の記憶がよみがえった。
麻樹は屋敷の首を勢いよく絞めた。その時、彼女はとても苦しそうにしていた。
教室内では、誰かがすすり泣く声がした。
目の前が一気に真っ白になってしまい、結局、どうやって家に帰ってきたのかもわからなかった。
——私は最愛の親友を失ってしまった。だだそれだけが、わかっていた。どうしてか、胸の奥がざらついた。
◇
次の日。屋敷の死因がわかった。外傷性頸動脈解離からの脳梗塞ということだった。
首を強く圧迫すると、頸動脈の内側が裂けることがあるらしい。急に容態が急変して、死亡に至ったという。
首に外傷がなく——そして、屋敷は過去に自殺未遂をしたことがあるという理由から、完全に事件とは断定されなかった。親御さんの強い意向により、誰も最後に会いにいくことはできなかった。きっと心の整理がつかないのだろう。
あんなに明るく元気な女の子だと思っていたのに——。
彼女は自分で首を吊って、救急車で搬送された過去があるということだった。
そういえば、屋敷は小学生の時に転校経験があったり、心理学の本を嗜んだりしていることを聞いたことがあった。それがどう彼女の自殺未遂と繋がっているかはわからないけど、みんな言わないだけでいろいろ抱えているものがあることを知った。
屋敷がいなくなってから、寂しさを分け合うように、クラスメートの子が積極的に話しかけてくれるようになった。
「——関内さんはさ、姫萌ちゃんの一番の友達だったから悲しいよね」
「可哀想……」
「良かったら、私たちにいつでも話しかけてねっ」
苦笑いしか返すことができなかった。
私の肩に、黒い靄が重くのしかかるような感覚があった。
もしも私が、麻樹の首絞めを、もっと早く止めていたら未来は変わったのかな。
屋敷は、今も笑顔で学校に通うことができていただろう。
——いいや、違う。彼女が亡くなったから物騒な噂を言いふらされなくて、助かったと言うべきなのだろうか。
麻樹には、屋敷が亡くなったことを一番に報告した。
学校帰り、誰もいないリビングで話した。
もしかしたら、麻樹は泣くかもしれないと思った。
これから重い罪を抱えて生きていかなければならないと思うと不憫で仕方なかった。
「——そっか」
麻樹は淡々とそう言った。
私は彼女の顔を食い入るように見つめた。
伏し目がちの目も、自分の髪を触るその仕草も、一秒たりとも見逃せなかった。
「——じゃあ、今度こそ二人きりだね」
パリン。
心が壊れる音がした。
私は麻樹のことを初めて怖いと思った。
屋敷のことを少しも気にかけない。彼女は一途に私を見つめている。
麻樹の手が伸びた。私の手を掴んで、天使が踊るように、指を遊ばせた。やがてすっぽり収まる位置を見つけ、キュッと恋人繋ぎをした。
——麻樹は手段を選ばない人なのかもしれない。
彼女は茂雄さんとお母さんのキューピッドとなり、私たちを家族にした。
愛情が憎しみに変わる瞬間を私は知っていた。
中学の時、あんなに大好きだった麻樹が不登校になったのをきっかけに、一転して世界で一番嫌いな存在になったことを、今さらながら思い出した。
彼女の愛がとても怖かった。私は初めて、逃げ出したい衝動に駆られていた。




