第36話 二人で一つ
「——ねぇ。わたしは風香のためになってる?」
「えっ……。何」
「……リリアとミツセンが堕ちるのもすぐのことだよ」
麻樹の瞳は真っ黒だった。
ずっと見つめていたら、吸い込まれてしまいそうだ。
「二人、これからどうなるんだろうね。リリアは今は頑張って学校に通ってるけど、味方がいなかったら、そのうち心が折れちゃうかも。お父さんも厳しいみたいだし、転校していなくなる可能性もあるかもね。ふふっ」
彼女が私の髪に触れた。
一本一本を指でさらさらとなぞり、弄び始めた。
「——ミツセンの奥さんって、実は昔の中学の教え子らしいよ。リリアも教え子でしょ? そんな相手と不倫してたなんて知ったら、奥さんの怒りも収まらないよね」
肌をかすめる麻樹の手は、陶器のように冷たかった。
「そういえば不倫した二人の末路って、どうなると思う?」
「さ、さあ」
「ほとんどは別れちゃうらしいよ。現実のダメージが大きすぎるし、気持ちも冷めていくんだって。結局、そういう恋って刺激の中でしか成り立たないんだね」
麻樹は私を見つめたまま、少しも視線を逸らさなかった。
「——それじゃ、私たちもじゃない?」
「何?」
「麻樹と私も……その学校でディープキスしたところから関係が始まったじゃん? バレないように人目を避けながら、密会を続けたでしょ?」
そうなのだ。
私たちの関係の始まりも、普通ではなかった。
「——今だから言うけど、麻樹のことが好きだからキスをしたというよりは、ドキドキ感を求めていたのかもしれない」
私はディープキスすら知らない無垢な人間だった。
同級生が先に進んでいる事実が少し悔しくて、好奇心も後押しして、一番身近な友達を付き合わせてしまったのかもしれない。
「——ずるいね。ムカついちゃう。風香。それは隠していて欲しかったな」
「……」
「でも、正直に言って欲しい気持ちの方が強いから、きっとすぐに許しちゃうんだろうなぁ……」
麻樹は一度息をついた。
「でもずるいのはわたしも同じか。キスされるまでは風香のこと普通の友達だと思ってたもん」
「そうなんだ」
「でもね、段々と風香に求められるのが嬉しいって気持ちに気づいたの。——だけど、そんな自分が嫌になるのも本当で。キスする度に気持ちいいって思うのに、そんなこと思っちゃ駄目だって止める自分もいたの」
私たちは紛れもなく思春期だった。
そういう欲を感じ取らないように、もともと無いように振る舞うのが正しいとされていた。
「不思議だよね。くっつく度、風香を考える時間が多くなるんだから。少しずつ、少しずつ、心の許せるスペースが広くなっていって、気づいたら、風香から離れられなくなっている自分に気がついたの」
麻樹は今日、キスを求めてはこなかった。
深く触れてこないその態度が、彼女の本気さを物語っているようで、胸が痺れた。
「——私ね、一人でいると不安になることがあるの」
麻樹に絆されると、素直になれた。
言葉がスラスラと口から出てくる。
「——でもね、今もこうして立っていられるのは、麻樹がいてくれるからかもしれない。——私のために動いてくれて、ありがとう」
「うん」
私たちは二人で一つだった。
ぐちゃぐちゃに傷つけあう時がある。でも、何もかも許して、ピトッとくっつきたくなることもある。
これは共依存というものなのだろうか。
——別に家族なんだから、これくらい普通だよね。
私たちはその場に座り込み、強く抱き合った。言葉は交わさないまま、部屋が暗くなっても、カーテンを引くことはしなかった。
遠くで救急車の音と犬の鳴き声が聞こえてくる。すべてのものから遠ざかっていたかった。
◇
「——最近、風香ちゃんと麻樹は仲がいいな」
家族みんなで、夕ご飯を食べている時だった。茂雄さんが、味噌汁を啜りながら穏やかな顔をして、不意にそんなことを言った。
「……あははっ。そう見えますか?」
「うん。最近はよくお互いの部屋を行き来しているみたいじゃないか」
き、気まずい。
茂雄さんは深い意味で言ったわけじゃないと思うけど。
お母さんも、にこやかな顔をして私たちを見ていた。
「——はい。姉妹になったので、勉強でわからないところを聞いたり、何でも協力し合いたいなと思っているんですよ」
「いい心がけだと思うな。うん。——僕たちも見習わないとな」
茂雄さんは、そう言ってお母さんを優しい眼差しで見つめた。
家族になってはや数ヶ月。最初はどうなることかと思ったけど、思ったよりも穏やかな日々を送れていた。
麻樹とも良い関係を保てていた。
——その時、茂雄さんが、咳払いをした。
「麻樹、風香ちゃん、そして芳佳さん。困ったことがあったら何でも話してほしい。問題は、僕たち家族で一緒に解決していこう」
彼は、その懐の深さを示すように、一人ひとりの顔をゆっくりと見渡しながら、言葉を紡いだ。
「茂雄さん……素敵!」
お母さんは、両手をピッタリとくっつけて、彼に見惚れていた。
「——うん」
麻樹は俯きながら、確かにそう言った。
「はい。もちろんです。ありがとうございます」
私もみんなに倣って、そう答えた。
言葉にすると軽く見えることってあると思う。
まさに家族内で、綺麗な言葉を口にすることだ。
だけど、私たちは後天的に家族になった。
言わないでも何も伝わるという状況は、実際難しかった。
だから、相手にわかってもらうために、意識的に言葉にする必要がある。
茂雄さんはこれまで、部屋の電球が切れたことを言ったら取り替えてくれたし、夜遅くに文房具屋まで用事があったら、きちんと送り迎えもしてくれた。言葉だけではなく、行動が伴っている人なのだ。
娘だから——とかじゃないけど、麻樹も行動と言葉が伴っている人だと感じることがある。
私に対する過去の贖いも、確かに返そうとしてくれているのだと感じることがある。
無意識でも、人に嫌なことをして、後で尻拭いをすることができる人ってどれくらいいるだろう。
方法は間違っているかもしれないけど、私は彼女の誠意を汲み取ろうとしていた。
運命ってわけじゃないけど、義理の姉妹になったのも、悪くないよね。
——あれ以来、群青さんと三石先生の状況について、麻樹から聞くことはなかった。それが良いことなのか、悪いことなのかはわからなかった。
ふと思い返すと、「もういいよ」と心の中で呟いてしまう。
何も行動に起こさない私は、きっと麻樹よりも不誠実な存在なのだろう。




