第33話 秘密の関係
どくんと心臓が速くなるのを、身体中に感じた。
どうやら群青さんは、私にはまだ気づいていないようだった。
自転車置き場にいて、スマホを見ていた。
まさに今、図書館に入ってこようとしているように見えた。
なんで、こんなところに。
息が上がる。
中学の嫌な記憶が全部蘇り、立っていられなくなった。
ふと、朝に屋敷が言っていたことを思い出した。
——殴りたくなるのは、心の奥にストレスが隠されているからだと。
ドクンドクンと、体が強く反応しているのがわかった。
私が本当に憎んでいたのは、麻樹ではなくて、群青さんなのかもしれない。
私がしたことは自業自得だと思う。
だけど、図書室で、群青さんが必要以上に騒がなかったら、私と麻樹は今でも仲良くしていられたんじゃないか。
——今すぐ、逃げ出したかった。
でも、図書館を出て、どうするつもり?
日常の中で、またいつ群青さんに出会うのかとビクビクしながら怯えて過ごさなければならないのだろうか。
ここで逃げたら、また同じことの繰り返しだ。
話さなくていい。
せめて、群青さんの目の前を堂々と通り過ぎるだけのことをしてみてもいいのではないか。
私は足にグッと力を入れた。
心理学のコーナーを出て、そのまままっすぐ進むとトイレがあった。
思わず中に入って、鏡に映る自分を見た。
うん。大丈夫。いつも通り。
ほてった体を冷やそうと、冷たい水で手を洗った。
ハンドドライヤーで水飛沫を飛ばして、いざ外に出ようとしたら、
「あっ」
「あっ」
——群青さんと鉢合ってしまった。
心の準備はまだできていなかった。息が止まる。
「……うっそー。関内さんじゃーん。久しぶりー!」
群青さんは高い声を出して、なんと私の手を取った。
乾かしたばかりで、水気が残っていたらどうしよう。そればかりを気にしていた。
「元気だったー? 中学ぶりだよねー。懐かしいー」
まるで親友だったと錯覚するかのように、ベタベタと触れてきた。
「えっと……」
「あっ。てか、途中から学校来なかったんだっけ? 今、何してるのー?」
信じられなかった。
あなたが原因の一つだというのに。
心が冷える思いがした。
そっか。群青さんにとって、私はどうでもいい存在だからこそ、こんな軽い態度が取れるんだ。
きっと、私が苦しんでいる間、何も考えずに思いきり青春を楽しんでいたのだろう。
——ブブ。
その時、スマホのバイブ音が鳴った。それは群青さんのものだった。
彼女は私から離れると、急いでスマホを確認した。
「——ごめん。そろそろ行くね。あっ。麻樹とは今でも連絡取ってるー?」
群青さんは、トイレの鏡で前髪を整えていた。
手持ち無沙汰なのか、何気なく私に世間話を振った。
「……いや。まったく」
私は咄嗟に嘘をついた。
胸が痛むこともなかった。
「そーなんだ。あの子、SNSとかも消しちゃったからさー。今、何してるかわからないんだよねー。誉山高校に行ったことはわかるけどさー」
群青さんは何も知らなかった。
麻樹の言う通り、彼女と連絡は取っていないのだろう。
少しだけ優越感を感じる。
——私たちが義理の姉妹になったと話したら、腰を抜かすほど驚くだろうか。
「まっ、いっか。それじゃーねー」
群青さんは急いでいるみたいだった。
私の顔をろくに見もせず、トイレから出て行った。
静寂が戻ってくる。
私はその場に崩れ落ちた。足が震えているのがわかった。
上手く笑えていただろうか。
もしこのタイミングでトイレに誰か入ってきて、具合が悪いと勘違いされるのが嫌だった。
だから、すぐに立ち上がり、トイレから出た。
図書館内をあてもなく、歩き回った。気持ちを落ち着かせたくて、ひたすら足を動かした。
本を読むのはもう少し後ででもいいだろう。
——あれ?
ふと、見覚えのある男性の後ろ姿が目に入った。
筋肉質だけど猫背。冬だというのに薄着。
私は咄嗟に本棚の陰に隠れた。
——あれは確かに、三石先生だった。
あだ名は、ミツセン。中学の時、私の担任だった人だ。
麻樹と図書室でキスをしていたのを見つけられて、みんなの前で公開処刑をされた。
不登校になってからは、進路のサポートは一切なかった。
私にとっては、何の恩義も感じない教師だった。
……なんでここに?
不思議で仕方なかった。街のはずれにある図書館に来なければならない理由なんて彼にはあるのだろうか。
「——ミツセン。お待たせ!」
「リリア」
ぼんやり三石先生を見ていると、そこに群青さんが現れた。私はハッとする。
三石先生は群青さんの腕を引き寄せて——そのままギュッと抱きしめた。
「……んっ。会いたかった」
そう言い、二人は——キスをした。
互いに体を寄せ合い、どう見ても親しげだった。
えっ。二人は付き合っているの?
でも、三石先生って……。
彼の薬指を見ると、そこには確かに指輪があった。
そうだ。既婚者だった。昔、二児の父と言っていたのを思い出す。
じゃあ、二人の関係って。
気づいたら、私はポケットからスマホを取り出して、二人の姿を写真に収めていた。
心拍数は上がっていた。
おぼつかない足を必死に動かして、私は走って図書館を出た。
息を切らしながら、裏通りを目指した。景色が横を流れていく。額からは汗が滲んだ。
薄暗い路地に来た時、もう大丈夫だろうという確信があった。




