第19話 わかった。キスするよ
「浅い傷だし、残っているわけないじゃん」
「ずっと心配だったの」
「大げさだよ」
一瞬の間があった。
「——それに、風香が元気にしてるのかも気になっていた。いつも心配だった」
「……」
きっと私が中学に途中から行かなくなったからだろう。
一気に体が熱くなった。
「……余計なお世話だよ」
声に力が入る。
「……」
彼女は黙ったままだった。
そこが逆に癪に障った。
「ま、麻樹はさ、どうだった? 楽しい学校生活とやらは送れた? 高校もさ、"ほま高"に入ったって噂じゃん。本当におめでとう」
「……」
彼女の口数が明らかに少なくなった。
だけど、なんて返事をしようか迷っているように思えた。
中途半端な優しさなんかいらない。
「——私の中学生活はさ、暗黒そのものだったよ」
ああ。口が止まらない。
「何もいいことなんかなかった。——だから高校では取り返そうと思ったの。屋敷にも出会えて、やっと立ち直れそうだったのに。……なんでまた私の目の前に現れたの」
麻樹とバチっと目が合った。
真剣な瞳だった。彼女は逃げようとはしなかった。
静寂が二人を包んだ。
「——わたしが会いたかったから。また友達になりたかったから」
「はぁ?」
声が裏返ってしまった。
「風香と縁を紡ぐためにはこうするしかなかったの。運命なんて、待っているだけじゃ何も起こらない。だから、自分から動くしかないの」
「……ちょっと待って。何を言っているの?」
意味がわからなかった。
麻樹、今、運命って、言った?
常識的な彼女が、ふわついた言葉を使うなんてらしくない。
「——今は、わからなくていいよ」
麻樹は泣きそうに笑ってみせた。
弱いところを見せるのはずるい。……何も言い返せなくなるから。
「……知りたいんだけど」
だけど、私も意地になる。
このまま引き下がるわけにはいかなかった。
好奇心をくすぐられたのは事実だ。彼女は何か隠している気がする。
「……いいよ」
麻樹はあっさりと、そう言った。
しかし、安堵したのもつかの間——。
「風香からキスしてくれたら教えてあげる」
「えっ?」
衝撃的な一言が私の耳に入った。
「……何を言っているの?」
本日二度目となる台詞だった。
彼女は寝ぼけているのだろうか。
でも、目はぱっちり冴えていて、まるで徹夜明けのようにも思えた。
「……駄目?」
麻樹は弱気だった。
ここで強めに出たら、絶対に断っていた。
……何か提案をする上で、一歩引くことって、大事だなと思わせられた。
「……キスなんてしたら、もう友達にはなれないよ」
彼女は、私と"また友達になりたかった"と言った。
ここで口づけを交わすと、もうまっさらな交友関係は築けないような気がした。
「——うん。そもそもわたし達って、義理の姉妹になっちゃったから。友達になりたくても、友達には戻れないよね。あはは」
「……」
「——だからさ、わたしと風香がキスをしても、関係性が大きく変わることなんてないよ? 義理の姉妹で居続けるだけ」
麻樹の言葉は、妙に納得させる力があった。
友達、親友——それ以上の親密さを表す言葉が、私たちの間にはあった。
たとえ絶交したいと感じても、無理に縁を切ることはできないだろう。
親同士が離婚でもしない限り、永遠に"まっとう"とも言える関係は続く。
それに、私と麻樹は既にキスをしたことがある。
初めてだったら戸惑うかもしれない。
……一度したなら、二度目も三度目も、それ以上も同じだ。
——麻樹が隠していることを知りたい。天秤が大きく揺れた。
「わかった。キスするよ」
「そう……」
私は彼女の見えない位置で握り拳を作った。
自分を奮い立たせるために、そうしていた。
「——恥ずかしいから、目ぇ、つむってよ」
「……わかった」
てっきり嫌だと言われるかと思ったけど、麻樹はあっさりと受け入れた。
心臓が速くなる。掛け布団が小刻みに揺れている気がした。
彼女が目を閉じる。
私の言うことを聞いてくれていた。
まるで眠り姫のよう。
私は麻樹にグッと近づいた。いい匂いが鼻をかすめて、思考が乱された。
けど、それも一秒のこと。すぐに、冷静な自分を取り戻すことができた。
——ちゅ。
室内に健全とも言いがたい音が広がった。
柔らかい感触がしたけど、唇ほどじゃないなと感じる。
少しした後、ゆっくりと身を引いた。
「——ほっぺになんだ」
不服そうに彼女は言った。ジト目を向けられる。
「だって、唇になんて言われてないから」
正論でもあり、屁理屈でもあった。
この雰囲気だったら、唇にしなくちゃいけないのはわかっている。
だけど、彼女に指示されるのが嫌だった。自分の好きなように動きたかった。
「……まぁ。いいか」
良かった。どうやら私は許されたらしい。
「じゃあ約束ね。あえて曖昧にして教えるからね。わたしのパパはね、お酒を飲むのが苦手なの」
「へっ?」
何が何だか、わからなかった。
「じゃあ、そういうことだから」
麻樹は言い逃げをした。
そのままベッドから下りて、私を一瞬チラッと見た後、部屋から出ていった。
新品のパジャマがよく似合っていた。
……。
待ってと、呼び止めることもできなかった。
——今、彼女はなんて言った?
なんで、急に茂雄さんの話をしたんだろう。
お酒が苦手な男性は珍しいけど、まぁそういう人もいるだろう。
麻樹は結局、何が言いたかったのか。
私は頭を悩ませる羽目になった。
悔しいことに、お昼までは彼女のことだけを、ただひたすら考えていた。




