第17話 風香を見ていたんだけど
私は椅子に深く座り、キィィと音を鳴らした。麻樹がこっちを見ていた。
私の部屋にはテレビがない。だから、喋らない限り、無音も続くわけで。
例えば、屋敷と一緒にいるなら、彼女から話を振ってくれる。
道に猫がいた話から、抹茶タルトの美味しさについてまで、何でもその時したい話をしてくれる。「関内はどう思う?」と、決まって最後に質問するところも好きだった。
私自身としては、正直、麻樹と話すことなんて何もなかった。
「……」
「……」
……気まずい。
なんとなく、机の上に転がっている消しゴムを触った。黒い面積が多いと、汚いように見えるから不思議。
消しゴムは、角がなくなり、丸かった。シャーペンを刺した後もくっきり残っていた。
——現実逃避がしたい。今だったら難しい辞書とかも、簡単に読破できる気がする。
勇気を出して、麻樹の方をチラッと見た。そしたら彼女は目をつぶっていた。
「……麻樹」
「……」
「麻樹?」
「……」
嘘でしょ。
私は椅子から立ち上がり、ベッドに近づいた。ひざまずいて、彼女の顔に耳を寄せた。
スースーと寝息を立てている。少し揺さぶってみたけど、目を開ける気配がなかった。
「ねぇ」
「……」
「本当に寝てるの?」
「……」
ふー。肩の力が抜けた瞬間だった。
何それ。
新しい家——しかも、久しぶりに会った元親友、いや、義姉の部屋でよく眠れるな。
もしかしてこの子、大物なのかもしれない。
だけど、さっき落ち着くって言ってたから、私の匂いに安心したのかも……?
って、いやいや。そんなはずない。一体、私、何考えてるの!?
一人で悶々としていても、突っ込んでくれる相手はいなかった。
寝ている人の相手をするのは得意だった。——それは、何もしなくてもいいから。
このままリビングにでも行こうかなと思い立ち、ドアに向かいかけたところで……やっぱりやめた。
もう一度、椅子に座り直して、麻樹の顔を見る。
……。
あの頃と、何も変わっていなかった。長いまつ毛も、形のいい唇も、昔のままだった。懐かしい。
「ふわぁ……」
あくびが出た。まだ10時なのに。
きっと、朝から動き回っていたせいかな。気疲れもした。
「……私も寝ようかな」
明日は日曜日だから、学校もない。
本当は夜更かししたかった。
だけど、このまま眠気に流されて、夢の世界に行くのもいいかもしれない。
「……」
私は慎重に、空いたベッドに入り込んだ。そーっとそーっと、麻樹を起こさないように。
彼女が布団を温めていてくれたようで、中はちょうど良い人肌温度になっていた。
「っ……」
横を向いたら、麻樹の顔が近くにあった。高い鼻が、にくらしかった。きれいな顔で寝ているなぁ。
——生きているよね?
なんて、皮肉めいたことを考えてみる。
先ほどまでの眠気はどこか、私は緊張してしまい、眠れそうになかった。恋愛としてのドキドキ感では断じてない。
世界一嫌いな相手が横にいるから、警戒して眠れないのだろう。
はぁ。
私は一つため息をついた。
観念して部屋の電気を消した。真っ暗にはせず、こだまの明かりだけはつけておく。
私は寝そべったまま、天井を見つめた。自分の部屋であるにもかかわらず、異世界にいるような感覚があった。直に、この家での生活にも慣れるだろうか。
1階からは、お母さんと茂雄さんが話す声が聞こえてきた。何を喋っているかはわからないけど、和気藹々として楽しそう。
あぁ。本当に二人は夫婦になったんだなぁ。
麻樹の寝息が耳に入ってくる。スースー、スースーと。いびき一つ、かくこともしない。
——もしかして、彼女も同じなのかもしれない。
新しい暮らしに緊張していて、一日終えた疲れもあってか、こんなにもぐっすりと眠れているのかもしれない。
今までは自分本位の生き方をすることが多かったけど、少し視野も広くなって、他人のことを考えられる余裕もできた。それでも、まだまだ子どもだとは思うけど。
その日、私が初めてホッとできた瞬間だった。目を閉じると——気付いたら寝てしまっていた。
その日見た夢は覚えていないけど、なんとなく楽しい夢だった気がした。
◇
次に目を開けたら、自分がどこにいるのかわからなかった。
まっさらな白い天井が目に入ると、引越したことを理解した。
そうだ。私はあの後……。
反射的に横を見ると、
「わっ」
「……おはよう」
——麻樹がいた。
ビー玉のような瞳で私をじっと見ていた。あまりにも至近距離だったから、心臓が飛び出しそうになった。
「な、何してるの?」
「風香を見ていたんだけど」
いつからそうしていたのだろう。私を見ていて、面白いことなんて何もないのに。
私は焦りからベッドを抜け出そうとした。そしたら、彼女に腕を掴まれてしまった。
「——もう行っちゃうの?」
「……だって、起きたから」
「もう少し寝ていようよ」
「えっ」
「だってまだ朝の5時だよ?」
「うそ」
机にある時計を見ると、麻樹の言う通り5時だった。昨日、10時に寝たからか、えらい早い時間に起きてしまった。
彼女にずるずると引っ張られて、ベッドに逆戻りした。
麻樹は私から目を離さない。そんなにジロジロ見られると困るんだけど……。




