氷の貴公子、初めての溺愛(3/3)
馬車がノルトハイム城に到着した。
そんなに長い時間外出していた気はしなかったが、気が付けばあっという間に日が暮れてしまっている。
夕食と湯浴みを済ませたシルヴェスターは、自室で手紙を書いていた。宛先は、東部地方の代官。時を戻る前のシルヴェスターが訪問することになっていた人物である。
手紙は、予定していた面会の中止を伝えるためのものだった。それだけではなく、本来なら今回の視察で指摘するはずだった問題点についても言い添えておいた。
この仕事は、シルヴェスターにとっては五ヶ月前に終わっているはずのものなのだ。だから現地に行かずとも過去を思い返すだけで、今あの土地で何が起きているのかが手に取るように分かった。
封筒に署名を終える頃、ドアにノックの音がする。ネグリジェの上からショールを羽織ったマリアンネが入室してきた。
「わたし、そろそろ寝ますね。シルヴェスター様も、あまり夜更かしなさいませんよう」
「大丈夫だ。私ももう休む」
手紙は明日、人を遣って届けさせようと思い、シルヴェスターは席を立った。マリアンネと二人で寝室へ向かう。
着心地を優先してあるマリアンネの寝間着は、飾り付けも少なくシンプルなデザインだ。こんな格好だと、余計に線の細さが際だって見えた。
(料理人たちに、マリアンネのための特別メニュー作成を急がせなければ)
今日の夕食もマリアンネはあらかた残してしまったのだ。
こんなに細いのでは、冬も越せないのではないかと心配になってくる。マリアンネはショールを肩の上にきっちりかけ直した。
「寒いのか?」
「い、いいえ」
心なしか、マリアンネの頬が赤かった。
「男性にこういう格好を見られるのは、何だか恥ずかしくて……」
「君の寝間着姿なら、五ヶ月前……いや、昨日も見ているが」
「それはそうなのですけれど……」
まだ慣れていないということなのだろうか。シルヴェスターは、「そんなことを言うなら、私だってナイトガウンを着ているじゃないか」とマリアンネを慰めておいた。
寝所に着くと、豪勢な天蓋付きのベッドが出迎えてくれた。この時になって初めて、シルヴェスターは自分の精神の消耗具合を知る。
今日は色々なことがあった。時を戻ったり、妻を溺愛したり。初めての体験の連続に、彼はすっかり圧倒されていたのである。
シルヴェスターはさっさと毛布にくるまろうとした。
けれど、夫としてやっておかなければならないことがあったと思い出す。なにせ、疲れているのは自分だけではないのだ。彼には妻を癒やしてやる義務があった。
「マリアンネ、今から君の喜ぶことをしてやろう」
「えっ、な、何でしょう……?」
マリアンネは何故か緊張感たっぷりに聞いてくる。シルヴェスターはベッドの端に腰掛け、自分の膝を手のひらでポンポンと叩いた。
「ここで休め」
「シルヴェスター様のお膝の上で……ですか?」
マリアンネは、何か聞き間違いをしているのではないかというような顔をしていた。
「どうした。早く来い。私の膝を枕にして寝るんだ」
「……逆ではありませんか?」
「逆? 頭ではなく足を乗せるということか? そんなまさか。私の膝は足置きじゃないんだぞ」
中々面白い勘違いをする、と思いながら、シルヴェスターはマリアンネの手を引いてベッドに横たわらせた。もちろん、その頭は彼の膝の上に乗っている。
「どうだ、気持ちがいいだろう」
「は、はあ……」
マリアンネはシルヴェスターに後頭部を向ける形で、横向きに寝そべっている。
マリアンネの頭はとても軽かった。一晩中乗せておいても脚が痺れる心配をしなくて良さそうなほどだ。
この軽い頭の中にシルヴェスターが舌を巻くほどの英知がたっぷり詰まっているのだとは、到底信じられない。知恵とは重量を伴わないものなのだろうか。
シルヴェスターはマリアンネの栗色の髪を撫でつけ、妻の白い横顔を見つめた。
「シルヴェスター様は、何故膝枕などしようとお思いになったのですか?」
「こうすると女性が喜ぶと聞いたことがあるからだ」
「誰がそんなことを?」
「父だ」
シルヴェスターはマリアンネの髪をひとふさ、すんなりとした自分の指に巻き付けてもてあそんだ。
「父は『膝枕はいいぞ、シルヴェスター。あれはとても愉快なものだ』と言っていた。彼はこういうことにかけては詳しかったんだ」
「……解釈の相違ですね」
マリアンネはボソッと呟いた。
「父の言葉は正しかったな。マリアンネの体はとても温かい。少なくとも私は心地いいと感じている。君はどうだ?」
「そう……ですね……」
マリアンネはちょっと体をモジモジさせた。
「貴重な体験ができたと思っています」
「貴重だなんて言わなくていい。これからは毎日でもしてやろう」
こうして毎日マリアンネを膝に乗せて寝かしつけてやることができる。
ふと沸き起こってきたそんな想像に、シルヴェスターは心が浮き立つのを感じた。胸が高鳴るようなこの感覚。これは一体何なのだろう。
「私の愛する対象が君で良かった」
自分自身のことすらよく分かっていないシルヴェスターだが、これだけははっきりと言えた。指に巻き付けた妻の髪を、そっと己の唇に当てる。
「やっぱり……シルヴェスター様って不思議な方……」
マリアンネはそう呟き、すやすやと寝息を立て始める。
夢の世界に入っていった無防備な妻の寝顔を、シルヴェスターは飽きもせずに見つめていた。