氷の貴公子、初めての溺愛(1/5)
「で、でき……?」
マリアンネは何を言われたのか分かっていないようだった。シルヴェスターは「溺愛だ」と繰り返しながら、妻に一歩近づく。
マリアンネは臆病なウサギのようにぴょこんと後退した。
「え、あの……だ、旦那様……?」
「他人行儀な呼び方はやめてくれ。それでは使用人たちと同じだ。私の名前は知っているだろう?」
「な、なま、名前……」
マリアンネは頬を赤く染めながら視線をさ迷わせる。ひょっとして彼女も人の名を覚えるのが苦手なのだろうか。
「名前で呼ぶのが嫌なら、ダーリンでも構わない。私も君のことはハニーと呼ばせてもらおう」
「そ、それはちょっと……。……マリアンネと呼んでください、だん……シ、シルヴェスター様」
マリアンネは意を決したように夫の名前を口にした。シルヴェスターは感心する。どうやら彼女はシルヴェスターより記憶力に優れているらしい。
「さて、マリアンネ。一つ質問がある」
シルヴェスターは先ほどまでマリアンネが使っていたテーブルの椅子に腰かけた。シルヴェスターが目で促すと、マリアンネもおずおずと手近な椅子に座り直す。
「君はどういうふうに溺愛されたい? 具体的な要望があれば言ってくれ」
「ええと……?」
「私は人を愛することに慣れていないんだ。だからマリアンネのリクエストを優先させるほうが、より効果的に君を溺愛できると思う」
マリアンネはポカンと口を開けていたが、やがてためらいがちに「そこまでして、わたしを愛さなければならないのですか?」と聞いてきた。
「そうだ」
シルヴェスターは即答しつつも、素早く考えを巡らせた。
(私が時を戻ってきたこと、マリアンネに言うべきか? ……いや、その必要はないな)
彼女に知っておいてもらいたい最重要事項は、「シルヴェスターはマリアンネを愛している」ということだけだ。「シルヴェスターが時を遡ってきた」などという余計な情報を与えてマリアンネを混乱させる必要はない。
(もしもマリアンネが、「シルヴェスター様は時間遡行を経験なさったのですか?」と聞いてきたら、「そのとおりだ」と答えればいい。あえて話すような事実ではないが、別に隠しておく理由もないのだから)
結論を出したシルヴェスターは、マリアンネに「それで、どうなんだ」と尋ねた。
「どういう愛し方をしてほしいのか言ってくれ、マリアンネ」
「別に……希望はありませんが……」
マリアンネは眉を下げる。
「その……溺愛など、今までされたことがないので……」
「分かった。それなら、ひとまずは私の好きにさせてもらおう」
その時、正午を告げる鐘が鳴った。
「行くぞ、マリアンネ。昼食の時間だ」
シルヴェスターは席を立ち、マリアンネの肩を抱いて図書室を出た。触れてみると、見た目以上に厚みのない体に驚かされる。力を入れたら簡単に折れてしまいそうだ。
「君はもう少しきちんと食事を取ったほうがいい」
「は、はい……」
「食べたいものはあるか?」
「は、はい……」
「では、今日の夕食は君の望みのものを出そう。遠慮なく注文してくれ」
「は、はい……」
何を問いかけても同じような答えしか返ってこなかったので、シルヴェスターは不思議に思って妻のほうを見た。
すると、マリアンネは夫の腕の中でかちこちに固まり、顔中を真っ赤にしているではないか。
「どうした、マリアンネ。熱でもあるのか」
「は、はい……」
「大変だ。すぐに医者に診せなくては」
シルヴェスターはマリアンネを抱きかかえようとした。
この頃になって、やっとマリアンネは正気に返ったらしい。「ち、違います!」と首を大きく振った。
「……ごめんなさい。わたし、誰かとこんなふうに仲睦まじく触れ合うのに慣れていなくて……」
「緊張していたのか。分かってやれなくてすまない」
病気ではないと分かり一安心だ。ここで彼女に倒れられると、溺愛計画に支障が出る。そんなことになれば、またしても母がおかしな魔術を駆使し、時を戻してしまうかもしれない。
「いいえ……悪いのはわたしのほうです。シルヴェスター様が謝るようなことではありませんよ」
「いや、私は人の気持ちを察するのが苦手なんだ。これからも、何かあれば言葉で表現してくれると嬉しい」
「分かりました。努力いたします」
マリアンネは申し訳なさそうに言った。
今度は拳二つ分ほどの距離を空けながら、夫妻は並んで食堂へ向かう。マリアンネは先ほどよりもリラックスしているように見えた。こういう距離感が好みなのか、とシルヴェスターは納得する。
二人が席に着くと、給仕係が昼食を運んできた。「いただきます」と言って、マリアンネが食事を始める。
シルヴェスターの前にも料理の乗った皿がたくさん並べられたが、彼はすぐには手をつけず、まずは妻の観察をすることにした。
マリアンネは大儀そうに長い髪を片手で押さえ、反対の手でスプーンを握っている。ニンジンのポタージュをひとすくいし、ふうふうと息を吹きかけてよく冷ましてから口へ運んだ。猫舌なのだろうか。
今度は一口大に切り分けられたパイに手を伸ばす。次はチキンのロースト、キッシュ、ここで喉を潤し……。
「あ、あの……」
飲み物が入ったグラスを置くと、マリアンネは思い切った様子で声を上げた。
「わたし、何か粗相をしましたか……?」
「粗相? 何のことだ?」
「シルヴェスター様が、ずっとこちらを見ていた気がしましたので……」
「問題があるのか?」
「ええと……そのように見つめられると、は、恥ずかしいと申しますか……。シルヴェスター様もお食事をなさってはいかがでしょう。せっかくのお料理が冷めてしまいますよ」
「君はじろじろ見られるのが嫌いなんだな。分かった。もうやめよう」
マリアンネの嫌がることをするのはできるだけ避けたかった。妻を愛する者としては、それが妥当な配慮だろう。
シルヴェスターはマリアンネから視線を外し、自分の食事に取りかかる。
彼は昔から食べるのが速かった。食事の作法は完璧に守りつつも、魔法のようなスピードで瞬く間に目の前の皿を空にしていく。
シルヴェスターは自分が早食いなのは理解していたから、マリアンネのほうが先に「ごちそうさまでした」と言った時には、驚いて皿から顔を上げた。
だが、彼女は料理を完食していなかった。皿にはまだ、たくさんの食べ物が残っている。
「もういいのか?」
「はい。わたしは幼い頃から小食なので……」
やはり彼女が痩せていたのは、あまり食べないからだったらしい。シルヴェスターはマリアンネの体が心配になる。もし彼女に何かあったら、またしても母の怒りを買うことになってしまうではないか。
「次からは、少量でも栄養が取れる食事を作らせよう」
シルヴェスターは対策法を考える。
「もしくは、君が思わずたくさん食べたくなるような食事を用意するかだな。好物はあるか? マリアンネだけの特別メニューを作成しよう。いや、いっそのこと私も同じものを食べるか」
「そこまでしていただかなくても……」
マリアンネは気まずそうにモジモジした。
「そんなに気を使わないでください。シルヴェスター様はシルヴェスター様で、お好きなものを召し上がってくだされば結構ですよ。わたしとは、お料理の好みも違うかもしれませんし……。シルヴェスター様は何がお好きなのですか?」
「私の好きなもの?」
そんな質問をされると思っていなかったシルヴェスターは、しばし呆ける。そして、「何だろうな」と言った。
はぐらかしたのではなく、本当に分からなかったのだ。
「今まで、料理の味なんてさして気にしたこともなかった。食事は、会食の時以外は書類を読みながら取ることが多い。そのせいなのか、味つけにまで気を配っている暇がなかったんだ」
「まあ……」
マリアンネは心底驚いたようだ。
「いけませんわ、そんなの。せっかく料理人たちがシルヴェスター様のことを考えて、心を込めて作ってくれたのです。もっときちんと味わわなければ、彼らに申し訳ないですよ。……あっ、すみません」
マリアンネは頬を赤くした。
「出過ぎたことを申しました。シルヴェスター様はお忙しい方ですもの。食事に構っていられないくらいお仕事が立て込んでいて当然です。今の言葉は忘れてください」
「いや、忠告ありがとう」
シルヴェスターは目を見開いた。大人しそうなマリアンネが、こんなにはっきりと自分の意見を言うとは思わなかったのだ。
「君は随分と食べる物にはこだわりがあるようだな」
「そういうわけでは……。……あの、本当に申し訳ありません。生意気なことを言ってしまって……」
シルヴェスターの水色の瞳と目が合うと、マリアンネは椅子の上で小さくなってしまった。
(何か困らせるようなことをしただろうか?)
マリアンネが必要以上に萎縮しているように見えたので、シルヴェスターはきょとんとした。
(いや、彼女だけではないか……)
シルヴェスターに見つめられると、大概の人は落ち着きをなくしてしまうのだ。氷の貴公子と目が合うと、氷像にでもされると思っているのだろうか。
(母上ならそういう魔法も使えるかもしれないが、私には無理だ。そのことをきちんとマリアンネにも伝えておかなければ)
シルヴェスターは身を乗り出し、うつむき気味になっていたマリアンネの顎を白い指先ですくった。そのまま彼女のグレーの瞳をじっと覗き込む。
「ほら。大丈夫だろう、マリアンネ」
「えっ……あ、あの……」
マリアンネは口をパクパクさせた。彼女の肌が熱くなっているのが、指先を通して伝わってくる。大きな灰色の目も段々と潤んでいった。
(……しまった。マリアンネはじろじろと見られるのが苦手と言っていたな)
シルヴェスターは自分の記憶力の悪さに苦々しい気持ちになる。妻を解放して、椅子に座り直した。
「すまない。動揺させてしまったか。私はただ、思っていることを伝えたかっただけなんだ」
「シルヴェスター様の思っていること、ですか……」
何を想像したのか、マリアンネは自分の唇を指でなぞったあと、両方の頬を手で押さえて赤くなった。
これはかなり不愉快な思いをさせてしまったらしい、とシルヴェスターは心の底から反省する。
「本当に悪かった。さあ、食事を再開し……ああ、君はもういいんだったか」
「はい。……お食事、とても美味しかったですよ」
マリアンネは小さく頷きながら言った。シルヴェスターは、先ほど彼女が唇に触れていたのは、料理の味を思い出していたからか、と見当をつける。





