今日から君を溺愛したいと思う(1/1)
「母上!」
馬車を飛ばして城へ引き返したシルヴェスターは、母の居室へ直行した。
「何事かしら。騒々しい」
母はいつもと同じく、ベッドの上で置物のように静かに横になっていた。
素知らぬ顔をしているが、本当はなぜ息子がこんなにも慌てているのかきちんと分かっているのだろう。腹立たしい思いで、シルヴェスターは母に詰め寄る。
「私に何をしたのです。答えてください」
「もう気づいているんじゃないの?」
母は冷笑を浮かべた。
「わたくしとお前の記憶だけはそのままにして、時を戻したのよ。ほかに何があるっていうの?」
「そんな! あり得ない……!」
シルヴェスターは絶句したが、母は息子にまるで同情している様子はなかった。シルヴェスターは困惑しながら質問を重ねる。
「一体どうやったのですか」
「ちょっとした魔法よ」
「魔法? 随分と非現実的なことをおっしゃるのですね」
何かとんでもないことが起きているのは理解していたシルヴェスターだが、さすがにそんな単語が出てくるのは予想していなかった。
母は病気のせいでおかしくなってしまったのかもしれない、とシルヴェスターの心に不安が根ざす。
だが、彼女は澄ました顔だ。
「この世界には、お前なんかではとても想像ができないようなものがたくさんあるのよ。魔法とか、妖精とか、死神とか……」
「……もう結構です」
頭が痛くなってきたシルヴェスターは、母の話を遮った。
母は取り乱す息子を「いい気味だわ」とでも言いたげに眺めている。その意地悪な表情が、何よりも雄弁に彼女の言葉に嘘はないと物語っていた。
シルヴェスターは口元を引き結ぶ。
(もう魔法でも何でもいい。大切なのは、私の時が戻ったという事実だけだ)
「母上が変わった力の持ち主とは知りませんでした。一体どこでそのような能力を身につけたのですか?」
「あら、魔法に興味があるの? でも教えないわよ。お前に話したら、くだらないことに力を使うに決まっているから」
「母上こそ、術を悪用なさったでしょう。私をこのような目に遭わせて、どうしようというのですか」
「お前にチャンスをあげようと思ったの」
母は高慢に鼻を鳴らした。
「ほったらかしにされて死んだ、かわいそうなお前の妻。でも、まだやり直せるわ。今度こそ彼女をきちんと愛してやりなさい」
「なぜ私がそのような無駄なことをしなければならないのですか」
「夫が妻を愛するのは無駄なことなんかじゃないわ」
母はシルヴェスターがたじろぐほどの強い口調で言った。
「お前は……お前たち夫婦は、このままではダメなのよ。分からないの?」
「分かりません。そんなことより、早く元に戻してください」
「悪いけど、その方法は知らないわ。わたくしだって、どんな魔法でも使えるわけじゃないのよ」
「では、私がこの五カ月の間にこなしてきた仕事は、全て白紙に戻ったということですか!?」
あまりにショッキングな事実を知らされ、シルヴェスターは血の気が引いた。母は「真っ先に言うことがそれなの?」とシワだらけの口元を曲げる。
「今ならまだ妻が生きているというのに、喜びもしないなんて……。呆れてものも言えないわ。誰に似たのかしら」
「母上だと思いますが」
「これは、もっと別の時点からやり直させるべきかもしれないわね」
母はシルヴェスターの言葉を無視して難しい顔をする。
「あの子が輿入れしてきた当日? 縁談が持ち上がった時? それとも……」
「待ってください、母上」
とんでもないことを言い始める母を、シルヴェスターは急いで制止した。
「まさか、またこのようなことをなさるおつもりなのですか? これ以上、私の仕事の成果を消されては困ります」
「だったら、お前の妻を全力で愛してやりなさい」
母はあくまで仕事のことしか考えていない息子に対し、つき合いきれないという顔を作る。
「わたくしは真剣よ。どうするの、シルヴェスター」
「……決まっているでしょう」
シルヴェスターは硬く拳を握った。
母がなぜこんなにも息子夫婦の仲のよさにこだわるのかさっぱり分からなかったし、脅しに屈したようで情けない気分だったが、背に腹は代えられない。
ただでさえすさまじい損害が出ているのだ。これ以上、仕事の邪魔をされてはたまらなかった。
(私にはこの家の発展がすべてだ。そのためなら、何だってしてみせる)
「私は幼い頃から、ノルトハイム家の一員として様々な試練に耐えてきました。今回の出来事もその一環だと思うことにいたしましょう。必ずや母上にご満足いただける結果を出し、二度と時間遡行などという愚かな行為を選択することのないようにしてみせます」
「期待しているわよ」
母の返事を待たず、シルヴェスターは退出する。近くにいた使用人を捕まえて、「私の妻はどこにいる」と聞いた。
使用人はシルヴェスターがそんなことを言い出すのが意外だったのか、面食らったような顔になっている。
「お、奥方様でございますか? 図書室だと思いますが……」
(読書中か。この緊急事態にのんびりしたことだ)
シルヴェスターは密かに嘆息しながら、図書室の重厚な扉を開け、中に入る。
当主の業務で必要な本は全て書斎に保管してあるし、手元にないものは使用人に持ってこさせるようにしていたので、彼はあまりここへ来たことがなかった。自分の城にもかかわらず、物珍しい気持ちで辺りを見渡す。
どこまでも続く高い棚と、その中にぎっしり詰まった本。奥には二階へ続く階段がある。
探し求めていた女性は、読書スペースにいた。テーブルに置いた分厚い本のページをめくるのに夢中で、歩み寄ってくるシルヴェスターには気づいていない。
(……そういえば、こんな顔をしていたな)
シルヴェスターは人の顔を覚えるのが苦手だった。
図書室に行く道中も妻の容姿を何とかして思い出そうとしたのだが、どうにもぼやけたイメージしか浮かんでこなかったので、目の前に座る女性を新鮮な思いでまじまじと見つめる。
(名前は何というんだったか……)
シルヴェスターは人の名前を覚えるのも不得手だった。
一心不乱に本を読む女性を観察しながら、懸命に頭をひねる。
シルヴェスターの妻は、とてもほっそりした体つきをしていた。スレンダーと表現すれば聞こえはいいが、どちらかというと不健康そうな痩せ方である。その点では、シルヴェスターの母と似ているだろう。
だが、母のように無駄に老いさらばえているということはなかった。下まつげの長い目は大きく、澄んだ色をしている。華奢な肩に覆い被さるように垂らされた量の多い巻き毛は栗色だ。
眉は下がり気味で、口や鼻は小作り。総じて控えめな雰囲気の女性である。
その頃になると、シルヴェスターはやっと妻の名前を思い出していた。
「マリアンネ」
女性が顔を上げる。ただでさえぱっちりとして印象的なグレーの瞳が、シルヴェスターの姿を捉えた途端にさらに大きくなった。
それから沈黙の時間が訪れる。シルヴェスターは何か失態を犯したのだろうかと焦った。
「……マリアンネ、ではなかったか?」
「い、いいえ。マリアンネです……」
妻はか細い声で応えた。
名前を間違えたのかもしれないと思ったのだが、どうやらそうではなかったらしい。
「旦那様はなぜこちらに? お出かけになったはずでは……」
「外出は取りやめにした。もっと大切な用ができたからな」
「大切な用?」
「君だ」
シルヴェスターは妻をじっと見据えた。
「マリアンネ、今日から君を溺愛したいと思う」





