氷の貴公子、初めての溺愛(3/5)
支度が調うと、二人は城を出発した。目指したのは、ノルトハイム城から一番近い街だ。
目的地に着き、馬車を降りて大通りを歩く。シルヴェスターはマリアンネが嫌がらない程度に彼女の様子を観察した。
マリアンネは、初めて見る領内の様子に最初は興味深そうな表情をしていた。けれど、しだいにその顔が曇っていく。大きなグレーの瞳にはどこか憂いがにじんでいた。
「どうした、マリアンネ。元気がないように見えるが」
「その……」
マリアンネは答えるのを躊躇しているようだった。そして、「この街はいつもこんなふうなのですか?」と聞いてきた。
「こんなふう?」
「活気がない、と申しますか……」
マリアンネは小さな声で言った。「わたし、人伝に聞いたことがあったのです」と続けながら、外套の袖の辺りを指先でいじっている。
「ノルトハイム家はとても豊かだけれど、その領地は決して住みやすいところではない、と。でも、シルヴェスター様を見ていたら、そんな話はでたらめなのかもしれない、と思うようになっていました。それなのに、結局は噂のほうが正しいなんて……」
言葉を連ねていたマリアンネは、我に返ったように「申し訳ありません!」と体を強ばらせた。
「わたし、すごく失礼なことを言いました。本当にごめんなさい。ただの妻の分際で、大きな口を叩くなんて。……もう馬車に戻りますね」
マリアンネは外套を翻し、来た道を早足で戻っていく。シルヴェスターは、一体何が彼女の気に障ったのかと戸惑った。
――ノルトハイム家はとても豊かだけれど、その領地は決して住みやすいところではない、と。
シルヴェスターは周囲に目をやった。
――活気がない、と申しますか……。
マリアンネの言ったとおりだ。街行く人は誰も彼もが陰気そうな顔をして、覇気がない。中にはみすぼらしい服を着て、路傍に座り込んでいる者もいた。
街並みにしてもそうだ。ここは街で一番大きな通りのはずなのに、どの家も店も華やかさに欠け、くすんで見える。
「ねえ、あの人、前のご領主様に少し似ていないかしら?」
「……まさか、氷の貴公子?」
「そうに違いないわ! 絵でしか見たことなかったけど、本当に冷たそうな人ねえ」
シルヴェスターに気づいた人々が、こそこそと噂話をしている。彼が視線を遣ると、皆慌ててそっぽを向いた。
「こら! 危ないから走るんじゃない!」
不意に大声がして、シルヴェスターの脚に何かがぶつかる。
振り返ると、五歳くらいの男の子が地面に尻もちをつけていた。その子が「痛てて……」と言いながら立ち上がろうとする。
けれど少年はシルヴェスターの顔を見るなり、ヘビに睨まれたカエルのように硬直した。
「こ、氷の貴公子……?」
蚊の鳴くような声で呟くと、少年はわっと泣き出した。
シルヴェスターは困惑した。小さい子どもの相手などしたことがない。どうしたらいいのか分からず、ただ少年をじっと見ているしかなかった。
すると、彼の泣き声はますます高くなっていく。不明瞭な声で、「連れていかないでぇ……!」と言っていた。
(連れていく? どういうことだ?)
シルヴェスターは訳が分からなくなり、少年を問いただそうと「何を言っているんだ」と尋ねた。
しかし、子どもはその質問には答えず、さらに激しく泣き出すばかり。こんなに涙を流したら、体中の水分がなくなってしまうのではないか、とシルヴェスターは心配になった。
異変に気づいたのか、辺りでは住民たちが遠巻きにこちらを見ている。「子どもにも容赦なしねえ」と囁く声が聞こえた。
「も、申し訳ありませんでした!」
冴えない顔をした中年男性がシルヴェスターの前に躍り出た。少年を庇うように小さな肩を抱きしめる。「孤児院の院長先生だわ」と誰かが言った。
「幼子のしたことです。どうか、どうかご容赦を……! ほら、ボリス。お前も謝るんだ!」
「氷の貴公子! 氷の貴公子がオレを連れていっちゃうよぉ……!」
「ボリス! 失礼なことを言うんじゃない! ああ、ご領主様、なんとお詫びをすればよいやら……」
「もういい」
シルヴェスターは踵を返した。どうも彼らは怯えているように見える。自分が近くにいないほうがいいのかもしれないと思ったのだ。
「シルヴェスター様……」
道の先ではマリアンネが待っていた。馬車に戻ると言っていたが、気が変わって引き返してきたのだろうか。その顔はひどく青ざめていた。
「顔色が悪いぞ、マリアンネ。どうしたんだ」
「……い、いいえ。何でもありません」
マリアンネはシルヴェスターから視線をそらし、下を向いた。二人は馬車を停めてある場所まで歩き始める。
その間中、マリアンネはずっとうつむいていた。栗色の髪がカーテンのように顔を覆っている。
彼女のこういう反応は数時間前にも見たことがあった。シルヴェスターがマリアンネの笑顔を褒めたことで、彼女はすっかりうろたえてしまったのだ。
けれど、今のマリアンネはあの時とは違うように見えた。今回、彼女が抱いている感情は戸惑いではないような気がする。
(では何だ?)
シルヴェスターはマリアンネの心の中を想像しようとするが、上手くいかない。しばらく考えた末、彼は白旗を揚げた。
「マリアンネ、今君は何を考えている」
馬車に乗り込みながら、先に乗車した妻に尋ねる。
「どういう気持ちなんだ。言ってみてくれ」
「どうと……おっしゃられましても……」
マリアンネは向かい側の座席で石像のように体を硬くしながら、小さな声を出した。
「別に何も感じていません」
「そんなことはないだろう。なぜ嘘を吐くんだ」
「嘘など吐いていませんよ。本当に何も感じていないのです」
マリアンネは頑なな調子で首を横に振った。ここまで言うのだ。もしかしたら、彼女が思い詰めたような顔をしているということ自体が勘違いだったのかもしれない。シルヴェスターはそう思おうとした。
けれど、どうにもモヤモヤする。
こんなにも誰かの考えていることを知りたいと思うのは、他人への興味が希薄なシルヴェスターにとっては珍しいことだった。
(どうしたものか……)
悩んだ結果、シルヴェスターは、マリアンネが心の内を明かしてくれないのなら、自分のほうから胸襟を開くべきかもしれないと思いついた。





