氷の貴公子、初めての溺愛(2/3)
支度が調うと、二人は早速城を後にした。目指したのは、ノルトハイム城から一番近い街だ。
目的地に着き、馬車を降りて大通りを歩く。シルヴェスターはマリアンネが嫌がらない程度に彼女の様子を観察した。
マリアンネは、初めて見る領内の様子に最初は物珍しそうな表情をしていた。けれど、しだいにその顔が曇っていく。大きなグレーの瞳にはどこか憂いがにじんでいた。
「どうした、マリアンネ。元気がないように見えるが」
「その……」
マリアンネは答えるのを躊躇しているようだった。そして、「この街はいつもこんな風なのですか?」と聞いてきた。
「こんな風?」
「活気がない、と申しますか……」
マリアンネは小さな声を出した。外套の袖の辺りを指先でいじっている。
「わたし、人伝に聞いたことがあるのです。ノルトハイム家はとても豊かだけれど、その領地は決して住みやすいところではない、と。でも、シルヴェスター様を見ていたら、そんな話はでたらめなのかもしれない、と思うようになっていました。それなのに、結局は噂の方が正しいなんて……」
言葉を連ねていたマリアンネは、我に返ったように「申し訳ありません!」と体を強ばらせた。
「わたし、すごく生意気なことを言っていますよね。本当にごめんなさい。ただの妻の分際で、大きな口を叩くなんて。……もう馬車に戻ります」
マリアンネは外套を翻し、来た道を早足で戻っていく。シルヴェスターは、一体何が彼女の気に障ったのかと呆然となった。
――ノルトハイム家はとても豊かだけれど、その領地は決して住みやすいところではない、と。
シルヴェスターは周囲に目をやった。
――活気がない、と申しますか……。
マリアンネの言った通りだ。街行く人は誰も彼もが陰気そうな顔をして、覇気がない。中にはみすぼらしい服を着て、路傍に座り込んでいる者もいた。
街並みにしてもそうだ。ここは街で一番大きな通りのはずなのに、どの家も店も華やかさに欠け、くすんで見えた。
「ねえ、あの人、前のご領主様に少しだけ似ていないかしら?」
「……まさか、氷の貴公子?」
「そうに違いないわ! 絵でしか見たことなかったけど、本当に冷たそうな人ねえ」
シルヴェスターに気付いた人々が、こそこそと噂話をしている。彼が視線を遣ると、皆慌ててそっぽを向いた。
「こら! 危ないから走るんじゃない!」
不意に大声が聞こえてきた。シルヴェスターの脚に何かがぶつかる。
振り返ると、五歳くらいの子どもが地面に尻もちをつけていた。彼は「痛てて……」と言いながら立ち上がろうとする。
けれど少年はシルヴェスターの顔を見るなり、ヘビに睨まれたカエルのように硬直した。
「こ、氷の貴公子……?」
小さな声で呟くと、少年はわっと泣き出した。
シルヴェスターは困惑した。小さい子どもの相手などしたことがない。どうしたらいいのか分からず、ただ彼をじっと見ていた。
すると、少年の泣き声はますます高くなっていく。不明瞭な声で、「連れて行かないでぇ……!」と言っていた。
(連れて行く? どういうことだ?)
シルヴェスターは訳が分からなくなり、少年を問いただそうと「何を言っているんだ」と尋ねた。
しかし、子どもはその質問には答えず、さらに激しく泣き出すばかり。こんなに涙を流したら、体中の水分がなくなってしまうのではないか、とシルヴェスターは心配になった。
異変に気付いたのか、辺りでは住民たちが遠巻きにこちらを見ている。「子どもにも容赦なしねえ」と囁く声が聞こえた。
「も、申し訳ありませんでした!」
不意に、眼鏡をかけた中年男性がシルヴェスターの前に躍り出た。少年を庇うように、小さな肩を抱きしめる。「孤児院の院長先生だわ」と誰かが話す声が聞こえてきた。
「幼子のしたことです! どうか、どうかご容赦を……! ほら、ボリス! お前も謝るんだ!」
「氷の貴公子! 氷の貴公子がオレを連れて行っちゃうよぉ……!」
「ボリス! 失礼なことを言うんじゃない! ああ、ご領主様、なんとお詫びをすればよいやら……」
「もういい」
シルヴェスターは踵を返した。どうも彼らは怯えているように見える。自分が近くにいない方がいいのかもしれないと思ったのだ。
「シルヴェスター様……」
道の先ではマリアンネが待っていた。馬車に戻ると言いながらも、気が変わって引き返してきたのだろうか。その顔は何故かひどく青ざめていた。
「顔色が悪いぞ、マリアンネ。どうしたんだ」
「……い、いいえ。何でもありません」
マリアンネはシルヴェスターから視線を逸らし、下を向く。二人は馬車を停めてある場所まで歩き出した。
その間中、マリアンネはずっとうつむいていた。栗色の髪がカーテンのように顔を覆っている。
彼女のこういう反応は数時間前にも見たことがあった。シルヴェスターがマリアンネの笑顔を褒めたことで、彼女はすっかり狼狽えてしまったのだ。
けれど、今回の彼女はその時とは別の感情を抱いているように見えた。でも、それが何なのかシルヴェスターには分からない。しばらく考えた末、彼は白旗を揚げた。
「マリアンネ、今君は何を考えている」
馬車に乗り込みながら、先に乗車した妻に尋ねる。
「どういう気持ちなんだ。言ってみてくれ」
「どうと……おっしゃられましても……」
マリアンネは向かい側の座席で石像のように体を硬くしながら、小さな声を出した。
「別に何も感じていません」
「そんなことはないだろう。何故嘘を吐くんだ」
「嘘など吐いていませんよ。本当に何も感じていないのです」
マリアンネは頑なな調子で首を横に振った。ここまで言うのだ。もしかしたら、彼女が思い詰めたような顔をしているということ自体が勘違いだったのかもしれない。シルヴェスターはそう思おうとした。
けれど、どうにもモヤモヤする。
こんなにも誰かの考えていることを知りたいと思うのは、他人への興味が希薄なシルヴェスターにとっては珍しいことだった。どうすればいいのだろうと悩む。
そして、彼女が心の内を明かしてくれないのなら、自分の方から胸襟を開くべきかもしれないと思い付いた。
「こちらを向くんだ、マリアンネ」
シルヴェスターは静かに語りかけた。
「君の元気がない顔を見ていると、遣る瀬なくなる。何かあるのなら正直に言って欲しい。私に落ち度があれば改善しよう」
「……もう怒ってらっしゃらないのですか?」
マリアンネはまつげを震わせながらそっと目を上げた。シルヴェスターは「怒る?」ときょとんとした。
「私が何に怒るというんだ。怒りを覚えるような出来事など、何も起こっていないのに」
「そんなことありません!」
マリアンネは驚いたのか、少し声が高くなっていた。
「わたしがノルトハイム領の経営方針に口を出したせいで、シルヴェスター様は不愉快な思いをなさったのでしょう? それに、先ほど子どもがぶつかってきた時もそうでした。シルヴェスター様があんなに睨むから、あの子はすっかり怯えてしまって……。ずっとわたしを質問責めにしているのも、不出来な妻を咎めようとしているからですよね?」
「待て、マリアンネ」
話せと言ったり待てと言ったり、我ながら自分勝手なことだ。
ちょっとした自己嫌悪を覚えつつも、マリアンネが重大な思い違いをしているようだと悟ったシルヴェスターは、片手を上げて妻の話を中断させた。
「私は誰にも怒っていない。君にも、あの子どもにも。睨んだ覚えもないし、責めたつもりもない」
「ですが、あんなにじっと見たりして……」
「見てはいけないのか? 私はマリアンネのことだって、しょっちゅう見ているぞ。……君が嫌がらない範囲でな」
「え……あ……」
マリアンネはすっかり困惑しきった顔になった後、急に肩の力が抜けたように脱力した。
「そういうことですか……」
マリアンネは上目遣いでシルヴェスターを見つめた。
「それがシルヴェスター様の癖なのですね。気になったものは、ついじっくり観察してしまう。しかも、無言、かつ無表情で」
「私にそんな癖が?」
シルヴェスターは目を瞬かせた。
シルヴェスターは他人だけではなく、自分自身にもあまり興味がなかった。そんな癖の存在など、今まで意識したこともなかったのだ。
それに、他者への関心が薄いはずの自分でも、何かに気を引かれることがあるというのは、どことなく不思議な心地がした。
「マリアンネは面白いことに気付くんだな。やはり君は聡明だ。……だが、ただ見ているだけで睨んでいるように感じられるものなんだろうか?」
「それは……シルヴェスター様がとても綺麗だから」
「綺麗? 私が?」
「ええ、素晴らしく美しいと思います。軽く左に流した髪の間から見える、人を射抜くような神秘的な水色の瞳。鼻筋はすっと通っていて、唇はどこか蠱惑的で。眉目秀麗という言葉が相応しいです」
「そうなのか? 自分の見てくれなど、あまり興味がない。だが、私の容姿と不機嫌に見えることがどう関係するんだ? 私はマリアンネに見つめられても、睨まれているとは思わないが」
「シルヴェスター様は顔立ちが整いすぎているのですよ。そのせいで、冷淡な印象を人に与えているのです。それに、表情も声のトーンも全然変わりませんし。……氷の貴公子などというありがたくない名をちょうだいしているのも、そのせいではないでしょうか。シルヴェスター様は、ただ何となく黙っているだけで冷酷に見える。そのために、いらない誤解を招く。そういう方なのです」
「なるほど、参考になる意見だ」
シルヴェスターは大きく頷いた。
「それでも、分かったところで容姿は変えられない。私はこの先も、氷の貴公子で居続けないといけないというわけか」
「それは……シルヴェスター様の努力次第ではありませんか?」
マリアンネは躊躇いがちに言った。
「少なくとも、わたしはシルヴェスター様のことを、もう氷の貴公子だなんて思っていません。あなたは不器用で優しい方です」
「……マリアンネ、疲れているのか? 私を優しいと表現するなど、判断力が鈍っているとしか思えないぞ。帰ったらゆっくり休め」
シルヴェスターはマリアンネの隣に席を移し、自分の外套を脱いで彼女の膝にかける。マリアンネは「そういうところですよ」と言った。
「シルヴェスター様は、何故わたしにこんなにも良くしてくださるのですか?」
「妻を愛する夫はこう振る舞うべきだと思っているからだ」
「わ、わたしを愛してくださっているのですか……」
マリアンネは赤面して顔をうつむけた。
また下を向かれてしまった。けれど、今のマリアンネは恐らく不快な気分にはなっていないはずだ。
「……よく分かりません。どうしてシルヴェスター様はわたしなんかを……」
「君以外の誰を愛せと言うんだ。他の者に愛を向けたって仕方がないだろう」
妻以外の者に執着などしたら、母が何をしでかすか分かったものではない。時を戻される以上の恐ろしい罰など、シルヴェスターは考えたくもなかった。
「私が愛するのはマリアンネでなくてはならないんだ」
「あ……う……」
先ほどまで冴えた意見を述べていた理知的な面はどこへやら。マリアンネはまだ喋れない赤子のように、口から意味をなさない言葉を発していた。
「シ、シルヴェスター様はとても愛情深い方です……」
マリアンネはやっとのことでそれだけ言った。
「ですから、なおさらその愛情がわたしだけに向いているというのが惜しく感じられます。もっと他の方も愛してあげてください」
「それは無理だ」
「無理ではありませんよ」
マリアンネはかぶりを振った。冷静さを取り戻してきたようだ。
「シルヴェスター様はノルトハイム家の当主ではありませんか。でしたら、領民をもっと愛するべきです。わたしはその次の次のそのまた次……。いいえ、最後の余り物の愛情でも満足です」
「健気だな、マリアンネ」
シルヴェスターは、もう何度目になるのか分からないほどのマリアンネへの尊敬の念が湧き上がってくるのを感じた。自分よりも他人を愛せなどと言えるその気概に、心底敬服する。
「心配しなくても、私の一番は君だ。だが、マリアンネが望むのなら、少しは今までのやり方を変えてみよう。何かいい方法がないか考えてみる」
「……シルヴェスター様は素直な方ですね」
マリアンネはまたあの煌めく笑みを見せてくれた。シルヴェスターは気分が高揚する。
(やはり彼女のこういう顔は好きだな)
領民を愛するなど途方もなく難しいことに感じられる。けれど、この表情がもっと見られるのなら、努力する甲斐もあると思えたのだった。