わたしが愛しているのは……(3/4)
「質問は以上か? それなら私も聞きたいことがある。本当に君には恋人がいないのか?」
「ええ、いませんよ」
「では、駆け落ちをする必要もないというわけだ。……それなら、これからどこへ行こうとしていたんだ?」
「孤児院ですが……」
マリアンネは駆け落ちとは何のことだろうと不可解に思っているようだった。
「わたし、どこかへ手袋を落としてきたようなのです。もしかしたら子どもたちを訪問した時かもしれないと思って」
「ああ、これか」
シルヴェスターは、ボリスから受け取った片方だけの手袋をマリアンネに渡した。
「その程度のこと、人を遣って確かめさせればよかっただろう」
「皆さんお忙しそうでしたから。それに、出かけて気分転換をしたかったのです。もうすぐシルヴェスター様ともお別れだと思うと、どうしようもなく気分が落ち込んでしまって……」
「私はマリアンネと別れるつもりはない。君を愛しているから。……今ならその言葉、信じてもらえるだろうか」
「ええ、もちろんです。シルヴェスター様も信じてくださいますか? わたしがあなたを愛しているということを……」
不安と期待の入り交じった妻の瞳が、シルヴェスターの心を揺さぶる。けれど、彼はまだマリアンネの言葉を受け入れられないでいた。
「本気なのか、マリアンネ。私は氷の貴公子なのに」
「人が何と言おうと、わたしはシルヴェスター様がどんな方か知っています。だから、あなたを愛するようになったのです」
「皆に悪趣味だと笑われるかもしれないが」
「……わたしに好かれると迷惑ですか? 愛してほしくなどなかった、と?」
「いや、嬉しい。嬉しいが、だからこそ不安だというか……」
シルヴェスターは、先ほどまでマリアンネから嫌われていると思い込んでいたのだ。離婚まで秒読みだったはずの夫婦。それなのに、今ではお互いに相手に「愛している」と告げている。
状況があまりに目まぐるしく変わっていくものだから、シルヴェスターは理解が追いつかなくなりそうだった。
それにシルヴェスターからすれば、誰かに好かれるよりも、嫌悪を抱かれている状況のほうが普通なのだ。
だが、マリアンネは「シルヴェスター様を愛しています」と言っている。妻の言葉を疑いたくはないが、彼女の言うことをすぐに信じるのはシルヴェスターには難しかった。
「シルヴェスター様もわたしと同じですね。愛されるのに慣れていないと、いきなり誰かに好かれた時に戸惑ってしまう」
マリアンネがシルヴェスターの腕にそっと手を置いた。
「わたしは父に期待されずに育ちました。父にとっては、二人の姉のほうが女性としての価値が高く見えたのでしょう。それは今でも変わりません。その証拠に、先ほど父がわたしのもとに来てこう言いました」
『シルヴェスター殿はお前を気の毒がっているが、同情による結婚は長くは続かない。その内、お前に嫌気が差すだろう。その時は潔く身を引け。心配しなくても、シルヴェスター殿にはお前の姉のどちらかと再婚してもらうつもりだ』
「何だって?」
シルヴェスターは呆れ返ってしまう。
「私は同情でマリアンネを傍に置いているわけではない。きちんと義父上の誤解を解いておくべきだったな」
こんなことを言われて、マリアンネが傷つかなかったはずがない。自分の不始末のせいでマリアンネに不愉快な思いをさせたことをシルヴェスターは深く反省した。
「それに、義父上は何も分かっていないようだ。君の姉がどんなに素晴らしいか知らないが、マリアンネ以上の女性がいるわけがないだろう」
「……ありがとうございます、シルヴェスター様」
マリアンネは笑みを漏らした。
「ですが、それは少数派の意見なのですよ。父だけではなく母も何かというと姉を優先させ、使用人も彼女たちばかり褒めそやしていました。わたしはいつでも二の次だったのです」
「虐待されていたのか?」
シルヴェスターは臓腑が冷えるほどの衝撃を受けたが、マリアンネは「まさか!」と慌てた。
「そんな大げさなものではありません。ただ、家の中でのわたしの地位は高くなかったというだけです。それに、わたしを一番に考えてくれる人もいましたよ。例えば、乳母と……その子どものダスティンがそうでした」
マリアンネは少し早口になって幼なじみの名前を挙げる。
「けれど、彼らは例外です。わたしは適当に扱われることに慣れてしまっていたのです。そんな境遇で育ったせいか、わたしは嫁ぎ先が決まっても夫に愛してもらえるとは思いませんでした。だって、わたしには何もいいところなどありませんもの。不器量で暗くて、おまけにもう二十三歳ですから」
マリアンネは、まるで「わたしは老婆です」と告白したかのように苦々しく最後の言葉をつけ足す。
だがシルヴェスターには、マリアンネの実年齢などそこまでこだわるような点だとは思えなかった。それよりも、シルヴェスターは妻が自分と同い年だったということに驚いている。
確かに外見上の年は近く見えたが、シルヴェスターはマリアンネに「先生」のような側面を見出していたのだ。シルヴェスターを導いてくれる頼もしい教師。そのため、自分よりも年上だろうと勝手に思い込んでいたのである。
「私は君が千年生きているとしても気にしないが。私にとって重要なのは、マリアンネがマリアンネであることだけだ。そのままの君でいてくれるのなら、頭から角が生えていたって、そんなことは些細なトゲにもならないだろう」
「……シルヴェスター様はやはり面白いことをおっしゃいますね」
マリアンネはどこかほっとしているようにも見えた。
「ですが、結婚前のわたしはシルヴェスター様がどのような方なのかよく知りませんでした。ただ冷たい心の持ち主で、氷の貴公子と呼ばれているということしか……。もちろん、今はそんなふうには感じていませんよ?」
マリアンネは急いで言い添えた。
「結婚の翌日、シルヴェスター様がさっさとお仕事へ行ってしまった時、わたしは『やっぱり』と思いました。たとえ誰かの妻になろうが、これまでと同じ。わたしは顧みられるような存在にはなれない、と。けれど、シルヴェスター様は帰ってきてくださった。そして、わたしを溺愛すると言い出した……」
マリアンネは小さく息を吐いた。
「今のシルヴェスター様ならお分かりになるでしょうか。愛されないはずの女を愛してくれる人の出現に、わたしがどう感じたのか。ありえないとか、これはただの夢だとか、身に余る幸運だとか……色々と考えてしまって、わたしはどうすればいいのか分からなくなりました」
――わたしなんかがこんなに幸福な思いをしていることが、まだ信じられないからです。これは全部夢かもしれない。目が覚めたら、シルヴェスター様もノルトハイム城も全て消えていて、わたしは結婚前に戻っているかもしれない。
かつてマリアンネはそう言っていた。
彼女の言うとおり、その言葉の真意をシルヴェスターは今、身をもって体験している。常に愛情不足な状態だったシルヴェスターは、誰かに強く想われているというこの状況に、まったく馴染めていなかった。
「それでも、シルヴェスター様は辛抱強くわたしを愛し続けてくださいました。それなのに、わたしのほうは……。ダスティンは鋭い目を持っています。彼はわたしの戸惑いを正確に見抜きました。そして、そこにつけ入る隙があることも」
「ダスティンの言うことはあまり気にするな。観察眼が鋭くても、間違うことはある。私はマリアンネを愛しているのに、彼はそんなことはないと言い張るのだから」
「そうかもしれませんね。シルヴェスター様はわたしを愛してくださっている。そして、今ではわたしも……。……もっと早く気づきたかったです。わたし、一時期は何もかも失ったと思っていましたから」
マリアンネは困ったように笑う。
「シルヴェスター様がよそに目移りしたことにショックを受けた瞬間に、わたしはあなたへの愛を自覚したのです。けれど、もう手遅れだと思いました。だから離縁してほしいと頼んだのです。こんなに近くにいるのに、こんなに愛しているのに愛されない。そんなことには耐えられなかったから……。今なら全て、ただの勘違いだったと言えますが」
マリアンネは自分の胸に手を置いた。
「疑心暗鬼が消えても、シルヴェスター様への愛は残っています。この愛がわたしの心をかき乱していたのですから、当然と言えば当然かもしれませんが」
「マリアンネ……」
シルヴェスターの胸に温かなものが満ちていく。ここまで誰かに愛されているという状況は想像したこともなかった。こういう時はどうすればいいのか、見当もつかない。
「君の真心に何かお返しができればいいのだが……」
シルヴェスターはマリアンネの頬を手で包み込んだ。マリアンネはとろんとした、今にも溶けてしまいそうな表情になる。
(そうか……。この顔は私に向けられたものだったのか……)
シルヴェスターの心臓がきゅっと疼く。マリアンネが一歩近づいてきて、それとともにシルヴェスターの中で渦巻いていた戸惑いが潮のように引いていった。
シルヴェスターはマリアンネの頬に当てていた手を顎に滑らせ、親指の先で唇をたどる。
それから、そこに優しくキスを落とした。妻の唇の柔らかさに、シルヴェスターは夢見心地になる。砂糖菓子のように甘く、春の日差しのように温かい。意識がふわふわと宙を舞っているような感覚がする。
たった一度の口づけだけでは物足りず、シルヴェスターは二度、三度とマリアンネとキスを交わした。
「シル、ヴェスター……さま……」
やがて、マリアンネは全身の力が抜けてしまったように夫の腕の中に倒れ込んだ。シルヴェスターは妻の栗色の髪を撫でてやる。
「すまない。我慢できなかった。……嫌だったか?」
「いいえ、ちっとも」
マリアンネは即答した。
「嬉しかったです、とても。あの、もしお嫌でなければもう一回……」
「分かった。歯を食いしばれ」
「えっ、ご、ごめんなさい。生意気なことを言いました。殴らないでください……!」
マリアンネは弾かれたようにシルヴェスターの腕の中から抜け出る。シルヴェスターは「どうした」と問いかけた。
「私が君に暴力など振るうわけがないだろう」
「ですが先ほど、『歯を食いしばれ』と……」
「キスをする時はそう言うんだろう? 父が教えてくれた。……いや、歯じゃなかったか?」
「……恐らくですが、『目を瞑れ』ではないでしょうか?」
マリアンネはクスリと笑う。さすがの博識だ、とシルヴェスターは感じ入った。
先ほどまで二人の間に漂っていた甘い雰囲気は吹き飛んでしまったが、シルヴェスターはお構いなしに、今度はちゃんと「目を瞑ってくれ」と妻に言った。
マリアンネは大人しくそれに従う。
妻がキスをねだる様子は、シルヴェスターの目にはなんともかわいらしく映った。いっそこのまま何もしないで彼女の顔を眺めていようかと思ったほどだ。
だが、その考えと同じくらいには、マリアンネと口づけを交わすことも魅力的に感じられた。
しばらくの間悩み、シルヴェスターは今度はもっと長い時間をかけてじっくり妻の唇を味わうことで、キスを待つ愛する人の顔が見られなくなることの埋め合わせとした。





