わたしが愛しているのは……(1/4)
「それで、いきなりどうしたの?」
話題をそらすように、ボリスが尋ねる。
「いつもは、来る前に知らせてくれるじゃん。……あっ、もしかして忘れ物を取りにきたとか? 廊下に手袋が片方落ちててさ。女の人用だし、いい素材でできてるから、多分マリアンネのだと思うんだけど……」
友人と再会できたことで和んでいたシルヴェスターの心は、妻の名前を聞いた途端に重くなった。シルヴェスターは空き教室へボリスを連れ込んで、単刀直入に切り出す。
「マリアンネに嫌われた。もう私の顔を見るのも嫌だと。是が非でも離縁したいと。そう告げられたんだ」
「ええっ!? マリアンネが!?」
ボリスが素っ頓狂な声を上げる。
「信じられないなあ。二人ともあんなに仲いいのに。聞き間違えじゃないの?」
「……分からない。だが、言われたような気がする」
弱り切っていたシルヴェスターは、もはや現実と想像の区別がつかなくなっている。頭の中で勝手にマリアンネのセリフをこしらえ、それを本当に言われたことだと思い込むようになっていたのだ。
「それに、最近はそこまで仲がいいと言えるかどうか……。マリアンネは何か思うところがあるようなんだ。私はどうすればいいんだろう。離れていった彼女の気持ちを取り戻すことは、もう無理なんだろうか……」
「……オレに言われてもなあ」
ボリスは頭を掻いた。
「もっとほかに相談相手はいなかったの? こんなの、七歳の子どもに話すようなことじゃないじゃん」
「君は案外薄情なんだな。私を見捨てるのか」
マフラーの件では助力してくれたボリスが今回に限って協力してくれないなんて、とシルヴェスターは目の前が暗くなるような思いがした。
友人が明らかにショックを受けているのが伝わったのか、ボリスは「そんなつもりはないけどさ」と慌てて言い添える。
「でも、どうすればいいのかなんてオレには……」
ボリスは「うーん」とうなりながら、頭をひねっている。やがて、憂鬱そうに「今のシルヴェスター、オレの父ちゃんみたいだな」と呟いた。
「オレの父ちゃんさ、お酒を飲んで家で寝てばかりいたんだよ。だから母ちゃんが代わりに夜遅くまで働いてたんだ。母ちゃん、すごく辛そうだった。だから……何もかも嫌になったんだと思う。ある日、家を出てったきり帰ってこなくなっちゃった」
ボリスは七歳の子どもには相応しくないような虚ろな目になっている。
「近所の人が言ってたよ。母ちゃん、よそに恋人がいて、その人のところへ行っちゃったんだって。父ちゃんはすごくショックを受けてた。それで前よりもお酒を飲む量が増えて、体を壊して死んじゃった」
「よそに恋人……?」
ボリスの悲惨な過去もさることながら、シルヴェスターは彼の母親が夫以外の者に心を奪われていたということが気にかかっていた。
「まさか……マリアンネにも恋人がいるのか!?」
シルヴェスターの脳裏に真っ先に浮かんできたのは、逞しい青年の日焼けした顔だった。
だが、シルヴェスターはこの可能性を即座に否定する。
(いや、彼は違う。マリアンネはダスティンと逃げるのを拒んでいた。では、恋人というのは私の知らない相手か……?)
マリアンネには恋人がいる。だからダスティンと逃亡しなかった。
同時に、マリアンネは夫の愛を受け入れることもできず、夫を愛することもなかった。
(マリアンネに恋人がいるとするならば、全てに筋が通る……)
シルヴェスターは近くの椅子の上に崩れ落ちた。
「このままではマリアンネが恋人と駆け落ちしてしまう……」
「いや、そうとは限らないと思うけど。大体、マリアンネに恋人がいるかどうかだって分からないのに……」
「だが、今の君の話から考えると、そういう結論に達するしかないだろう。マリアンネはもうすぐ私の手の届かないところへ行ってしまうかもしれない。私はどうしたらいいんだ……」
「……オレに言えるのは、お酒を飲んでもなんにも変わらないってことだけだよ」
ボリスは打ちひしがれる友人を痛ましそうに見ていた。
「オレ、シルヴェスターもマリアンネも大好きだからさ。二人には離れ離れになってほしくないよ。……いつも不思議だったんだ。どうして父ちゃんは母ちゃんを連れ戻そうとしなかったんだろう、って」
「連れ戻す……」
その言葉は、真っ暗な闇の中で光る一番星のように、シルヴェスターの暗い心に希望をもたらした。
(まだマリアンネは出ていっていない。彼女を引き留めるなら今がチャンスだ)
シルヴェスターは椅子を倒しそうな勢いで立ち上がった。
「ボリス、私は城へ帰る。話を聞いてくれてありがとう」
やはり持つべきものは友だ。父の教えは、いつだってためになる。
シルヴェスターは孤児院から引き揚げると、馬車を飛ばしてノルトハイム城へ戻った。
外套を着たマリアンネとすれ違ったのは、玄関ホールを早足で歩いていた時のことだ。
「マリアンネ……!」
シルヴェスターは頭を杭で刺されたような衝撃を受けた。遅かった。彼女はすでに家出を計画していたのだ。
「ダメだ、マリアンネ! どこへも行くな!」
「は、はい?」
シルヴェスターの姿を認めるとさっと顔を伏せたマリアンネが、珍しく大声を出す夫に、今度は目を白黒させる。シルヴェスターは妻の進行方向に立ち塞がった。
「君にはここにいてほしい! お願いだ、マリアンネ!」
「シルヴェスター様……何かあったのですか?」
マリアンネが気遣わしげに聞いてくる。
「そんなにまっ青になって……。どうなさったのです?」
「……恋人のことを考えていた」
シルヴェスターが端的に言うと、マリアンネが固まった。図星を指されて動揺しているのだろうか。シルヴェスターの気分は地の底まで落ち込む。やはりマリアンネは、夫ではない者を愛しているのだ。
「マリアンネ……私は……」
「何もおっしゃらないでください、シルヴェスター様」
マリアンネは声を震わせながら、シルヴェスターの話を遮った。
「初めから分かりきっていたことだったのですよ。所詮、わたしとシルヴェスター様では釣り合わない、と」
反論の言葉を思いつけなかったシルヴェスターは胸が苦しくなる。
(マリアンネは知的で優しく上品。魅力に溢れた最高の女性だ。一方の私は、冷たく非情な氷の貴公子。そんな私がマリアンネの夫でいるなど、不似合いもいいところというわけか……)
――女性は星の数ほどいますわよ?
娼婦に言われた言葉が蘇る。
(女性が星の数ほどいるのならば、男性だってそれと同じだけ存在するはずだ。マリアンネのような人を魅了する才能の持ち主なら、その中から誰だって選び放題だろう。だから、いつまでも私の傍にいる道理はない……。そう言いたいんだな)
「……確かに、もう少し身の程をわきまえる必要があるかもしれないな」
「……ええ、そのとおりです」
マリアンネは微笑した。
シルヴェスターはマリアンネの笑顔の好きだった。けれど、今の彼女を見ても全く気分が晴れない。それはきっと、その笑い顔がほとんど泣いているように見えたからだろう。
「わたしたちは釣り合わない夫婦。だから、他の誰かに惹かれてしまうのも当然なのです。このままでは、わたしたちは二人とも不幸になってしまうでしょう。片方は恋人と過ごしていても、配偶者の存在が常に頭をちらつく。もう片方は、いつかはあの人が自分のもとへ戻ってきてくれるかもしれないと儚い望みを抱きながら、その不在を日々嘆く。こんな状態は、どう考えても幸せとは言えません」
マリアンネは小さくかぶりを振った。そして、決意と諦めがこもった口調で続ける。
「シルヴェスター様、これはわたしの結婚生活で唯一の……そして、最後のワガママです。どうか、わたしと離縁してください」
「……そんな頼みを私が聞くと思うのか」
「無理を言っているのは承知しています。けれど、これがお互いにとって一番いいはずです」
こんなに頑固に何かを主張するマリアンネは初めてだ。シルヴェスターは彼女の意思の固さを思い知った。もう何を言っても無駄なのだろうか。
だが、シルヴェスターはどうしても妻を諦めたくなかった。
「マリアンネ……出ていくなんて言うな。そんなことになったら私は……」
「シルヴェスター様は相変わらずお優しいですね。わたしを心配してくださっているのですか?」
マリアンネは、またしてもあの悲しげな微笑を漏らす。
「確かに、離縁されれば実家の父を失望させてしまうでしょう。けれど、そうなったらそうなったで、また新しい結婚相手を宛がわれるだけですよ。……父はわたしの再婚など絶望的だと思っているかもしれませんが」
「それなら、私と別れる意味がないじゃないか。結局君は、本当に愛した者と結ばれないんだから」
「愛する方と離れるために離縁するんですもの。初めから結ばれないのは分かりきっていますよ」
「……愛する人と離れる?」
シルヴェスターはマリアンネが何を言っているのか分からなかった。彼女は恋人と二人で新しい人生を切り開こうしているのではなかったのか。
「……後学のために教えてくれ。君が愛した相手はどんな男性なんだ?」
「……? どんな男性と言われましても……」
「女性なのか?」
「そんなことはありませんが……」
マリアンネは首を振る。どうやらシルヴェスターはよっぽどおかしな質問をしたようだ。マリアンネは怪訝な顔つきになっている。
だが次の瞬間には、彼女はうっとりとした表情を浮かべていた。恋人のことを思い出しているのだろう。シルヴェスターの胸がジリジリと焦げる。自分の妻にこんな顔をさせる男性は、一体どこの誰なのだろう。
「……君が選ぶんだ。さぞや素晴らしい人物なんだろうな。見目も家柄も一級品。優しくてマリアンネのことを一番に考えてくれるような」
「ええ、そのとおりです」
マリアンネは頬を染めながら頷いた。頼むからそんな表情はやめてくれ、とシルヴェスターは叫びたくなる。
「淡い金の髪と水色の目をした、はっとするほどの美貌の持ち主です。そして、名門貴族家の当主ですよ」
(なんということだ。私と同じ髪と目の色とは。しかも、立場まで似たようなものとは。それならもう、私でいいじゃないか)
シルヴェスターは釈然としない気持ちで、心の中で抗議の声を上げた。
「少し何を考えているのか分からないところもありますけれど、私を愛してくれているというのは間違いありません。……少なくとも、そんな時期もありました」
ふと、マリアンネの顔が暗くなる。彼女の言葉からするに、今は恋人と不仲になっているということなのだろうか。
これはシルヴェスターにとってまたとない知らせだった。マリアンネと恋人が上手くいっていないのなら、彼にもまだ引き止めることはできるかもしれない。
けれど、シルヴェスターの心に喜びは湧いてこなかった。
「マリアンネにここまで言わせておきながら、その男は今では君をぞんざいに扱っているのか」
シルヴェスターは眉根を寄せた。誰であろうと、マリアンネの表情を曇らせるのはいただけない。
「なぜ君はそんな男を愛しているんだ。一体それは、どこの誰なんだ。居場所を突きとめ、私が一言言ってやる」
「え? ええと……?」
「さあ、言うんだ、マリアンネ。その男の名前を」
「ですが……」
「言うんだ!」
「シ、シルヴェスター様です!」
シルヴェスターの勢いに気圧されたように、マリアンネも大声を出した。
「わたしが愛しているのは、シルヴェスター様です!」





