マリアンネを愛してくれているんだな(1/1)
「約束には早いですがもう決行するべきです、マリアンネさん。俺と逃げましょう」
ダスティンの声が聞こえてくる。彼の声色は必死だったが、それに応じるマリアンネも真剣だ。
「そんなこと、できるわけがないでしょう。何を考えているの!」
「どうしてですか!? 氷の貴公子はあなたを愛していないんですよ! そんな奴の傍にいたって、幸せになんかなれません!」
「だからって、あなたと行くことはできないわ」
「でも、マリアンネさんは俺と結婚してくれるって言いました!」
「一体いつの話をしているの? あの時のわたしは、まだ十歳にもなっていなかったのよ!」
建物の影から飛び出してきたマリアンネに、シルヴェスターは危うく衝突しそうになる。
一心不乱に駆けていくマリアンネは、シルヴェスターがそこにいたことにまるで気づかなかったらしく、夫が「マリアンネ!」と呼びかける声も耳に入っていないようだった。
「マリアンネさん!」
先ほどマリアンネが出てきた曲がり角から、ダスティンが姿を現わす。彼はシルヴェスターの姿を見ると、息を呑んだ。
「……何ですか」
ダスティンがシルヴェスターを睨みつけた。
「フラれた俺をバカにしにきたんですか? あんたって、本当に嫌な男ですね」
「私に人の不幸を笑う趣味はない。ただ、君に言いたいことがあっただけだ。マリアンネを連れていかないでくれ」
「……行きたくても行けませんよ」
ダスティンが舌打ちした。
「さっきの会話、聞いていたでしょう。マリアンネさんは俺を選びませんでした。せっかく二人が破局するように色々と細工をしたのに……」
ぼやくダスティンの足元に、庭の向こうから歩いてきた黒い猫がすり寄る。口元に白い毛が生えたその姿に、シルヴェスターは見覚えがあった。
「それは君の猫なのか?」
「そうですよ」
ダスティンは猫の顎の下を撫でた。
「昔から猫が好きでね。この子も赤ん坊の頃から面倒を見ていました。だから、こいつは俺の言うことをよく聞いてくれますよ。氷の貴公子を困らせてやれと言ったら、マフラーをめちゃくちゃにしてくれた」
「何だって!?」
シルヴェスターは愕然となる。ダスティンは小バカにしたような顔になった。
「何にも気づいてなかったんですね。氷の貴公子も意外と抜けてるじゃないですか」
ダスティンが猫を抱き上げる。
「指輪を孤児院の副院長に渡したのも俺。で、マリアンネさんには『氷の貴公子がよその女に指輪をあげた』って吹き込んだんです」
「ダスティン……君は意地が悪いんだな。やっていいことと悪いことがあるだろう」
「何とでも言ってくださいよ。俺はどうしても、あんたからマリアンネさんを引き剥がしたかったんだ」
「彼女と結婚するために?」
「ええ」
ダスティンは猫を地面に降ろしてやる。唇を噛みしめているように見えたが、顔をうつむけていたので、よく分からない。猫は庭の奥へと早足で歩いていった。
「そりゃあ、確かに俺は平民ですよ。マリアンネさんとは身分が違う。でも、マリアンネさんは父親に大した期待をかけてもらえていなかった。だから、頼み込めば俺にもチャンスがあると思っていたんです。それなのに……」
ダスティンがお馴染みの憎しみがこもった黒い目でシルヴェスターを見た。「よりにもよって、なんで結婚相手があんただったんだよ」と吐き捨てる。
「よその土地に住んでる平民の俺だって知ってる。あんたは冷たい男だ、って。氷の貴公子シルヴェスター・フォン・ノルトハイム。領民を苦しめる極悪人。あんただったから、俺はマリアンネさんを諦め切れなかった。あんたみたいな冷血漢が、マリアンネさんを幸せにできるわけがないと思ったから……」
ダスティンはうなだれた。シルヴェスターは彼に歩み寄る。
ダスティンは傲慢に笑った。
「殴りたきゃ殴ってください。それとも、処刑しますか? 妻を横取りしようとした男です。それくらいは当然ですよね」
マリアンネに選ばれなかったことで、ダスティンは自暴自棄になっているようだった。自分の罪を洗いざらい喋ったのも、もうどうにでもなれという投げやりな気持ちの表れだろう。
けれど、シルヴェスターはダスティンを殴るつもりも、ましてや処刑台に連れていく気も全くなかった。
「マリアンネを愛してくれているんだな、ありがとう」
シルヴェスターはダスティンの肩に手を置いた。
「義父上はマリアンネをあまり大切に思っていないようだった。だが、君は違う。自分を尊重してくれる幼なじみがいて、マリアンネは随分と救われただろう」
「……あんた、何言ってんだよ」
ダスティンはうろたえた。肩からシルヴェスターの手を払いのけ、一歩後退する。
「俺がしたこと、もう全部知ってるくせに。同情してるんですか? そんなのいい迷惑ですよ!」
「私は君に同情ではなく感謝している。『ありがとう』は礼の気持ちを表す時に使う言葉だろう」
シルヴェスターはダスティンが後退した分だけ歩を進め、彼との距離を詰めた。
「君はきちんと分かっているようだが、私は冷たい男だ。だから、君を慰める言葉は知らない。その代わりに感謝の気持ちを伝えているんだ。今までマリアンネを守ってくれてありがとう」
「……」
ダスティンは口を半開きにしたまま何も言わない。シルヴェスターは続けた。
「今度は私がマリアンネを守る番だ。君の目はいつも真実を映しているとは限らないようだから、もう一度言っておこう。私はマリアンネを愛している。だから、彼女のことは私に任せてほしい」
「そんな……そんなの、信じられるわけが……」
ダスティンはシルヴェスターの言葉を拒絶したものの、その声からは自信が抜け落ちかけていた。
シルヴェスターはもう一度、はっきりと自分の気持ちを口にする。
「私はマリアンネを愛している」
あまりにも真摯なその声は、ダスティンの心に揺さぶりをかけたようだ。青年は急に心臓に痛みを覚えたように胸の辺りを強くつかむ。
「こんなことって……」
ダスティンの顔が段々と歪んでいった。シルヴェスターに動揺する姿を見られたくないのか、顔を伏せる。
ダスティンは罵倒の言葉がシルヴェスターとの盾になればいいと言いたげに、目の前の相手を罵った。
「俺は、あんたなんて大嫌いだ!」
「別にそれで問題ない。ただ、マリアンネのことだけは嫌わないであげてくれ」
「そんなの、当たり前だろ……!」
ダスティンが嗚咽を漏らした。シルヴェスターは「泣いているのか」と問いかけて、ダスティンの頭を撫でてやる。
「触るな! あんたにそんなことされても、全然嬉しくねえ! それに、泣いてなんかねえよ!」
と言いつつも、顔を上げたダスティンの頬は、涙でびしょ濡れだった。シルヴェスターはハンカチを差し出したが、ダスティンはそっぽを向いてしまう。シルヴェスターは困り果てた。
「どうしたら機嫌を直してくれるんだ? 抱きしめてほしいのか? それともキス……はごめん被りたいが……」
「俺だって嫌ですよ」
ダスティンは忌々しそうに言った。
「やっぱりあんたは嫌な奴だ」
ダスティンは袖で乱暴に目元をこすった。
ダスティンは赤くなった目でシルヴェスターを睨みつける。けれど、その視線にはいつものような鋭さがなかった。シルヴェスターが真正面から見つめ返すと、ダスティンは耐えきれなくなったように目をそらす。
「……ここは一旦引き下がってあげますよ」
ダスティンが小声で敗北宣言を出した。それでも、彼は黙って身を引くつもりはないようだ。
「だけど、覚えておいてください。マリアンネさんをぞんざいに扱ったら、今度こそ俺が彼女をさらっていきますから。分かりましたね、シルヴェスターさん」
ダスティンは足早に庭から去っていく。彼が恋敵を「氷の貴公子」と呼ばなかったことにシルヴェスターが気づいたのは、しばらくしてからのことだった。





