義父の訪問(1/1)
翌朝。シルヴェスターが目覚めた時には、すでに隣にマリアンネの姿はなかった。
もう何時間も前に起きていたのか、シーツからも温もりを感じない。冷たい寝具に触っている内に、シルヴェスターは心が萎れるような気持ちになってきた。
(遡行前のマリアンネも、こんなふうに夫の不在に気を落としていたのだろうか……)
朝の日差しがカーテンの隙間から差し込む寝室の中で、シルヴェスターは表情を曇らせた。誰かに顧みられないことの辛さを、身をもって再認識した思いだ。
今日はもう何もしたくないと思ってしまうほどの無気力を感じていたが、シルヴェスターは無理に体を起こして身支度を調え、食堂に向かった。道中、マリアンネとすれ違う。
「おはようございます、シルヴェスター様」
マリアンネは、いかにも名家の若奥様といった風情で夫に一礼した。シルヴェスターはマリアンネが結婚指輪をはめていないのに気づき、ますます気持ちが暗くなるのを感じる。
あまり食欲はなかったが出されたものをほとんど無理やり口の中に詰め込み、シルヴェスターは食堂を出た。
本当はマリアンネと過ごしたかったが、彼女が拒否したらどうしようと思い、言い出せないまま自室へ戻る。
そんな彼に、使用人が来客を告げた。
驚いたことに、訪ねてきたのはシルヴェスターの義父……つまり、マリアンネの父親だという。
(なぜ彼がここに?)
疑問に思いつつも、何かやることがあるのをありがたく思いながら、シルヴェスターは客間へ向かった。
「まさか、こんなところでお前に会うとは思わなかったぞ!」
義理の父は、客間の前で誰かと話し込んでいた。日焼けした肌の逞しい体つきの青年だ。
「元気そうだな、ダスティン」
義父は青年の肩を気安い調子でバシバシと叩いている。シルヴェスターは首をひねった。
(ダスティンだって?)
聞き覚えのある名前だ。確か、マリアンネが彼のことを何か言っていなかっただろうか。
シルヴェスターが思い出そうと懸命に頭を回転させていると、義父たちがこちらに気づいた。シルヴェスターは、振り返った青年の目を見てあっと声を上げそうになる。
こちらを憎々しげに見ている青年は、シルヴェスターが直接雇ったあの男だった。彼はダスティンというのか、とシルヴェスターは今さらながらに青年の名前を知る。
「これはシルヴェスター殿」
義父は丁重に挨拶をした。
いくら義理の親子関係にあるといっても、家柄ではシルヴェスターのほうが上である。気を使うのも無理はない。
「彼と知り合いなのですか、義父上?」
義父が訪ねてきた目的も気になったが、それ以上にシルヴェスターはダスティンのことが引っかかっていた。義父は「ええ、もちろんです」と頷く。
「彼の母親が昔マリアンネの乳母をしていましてね。その関係で、ダスティンもマリアンネとは大変親しくしていました。今でも手紙の交換をしているんだよな?」
「はい、頻繁に」
ダスティンは挑むように答えた。といっても、彼が挑発したかったのはマリアンネの父親ではなく、シルヴェスターのほうだったようだが。
ふいに、シルヴェスターはあることを思い出した。
――俺はあなたと一緒に育った。あなたは俺にとって特別な存在だったし、逆もまたしかりでしょう?
それまでバラバラだった事柄が突然に繋がり、シルヴェスターは雷に打たれたような衝撃を覚える。
――ここから逃げましょう、マリアンネさん。それで、俺の妻になってください。
この男だったのだ。マリアンネに駆け落ちを持ちかけていたのは。
あの出来事は夢ではなかった。ダスティンは幼い頃から想っていたマリアンネを助けるためにノルトハイム城に潜入し、シルヴェスターから愛しい人を引き離す計画を立てていたのだ。
「ダスティン、君は……」
「シルヴェスター殿、ダスティンのことはもういいでしょう」
シルヴェスターはダスティンに詰め寄ろうとしたが、義父がそれを阻む。
「本日はとても大事なお話があって来たのです」
「義父上、今はそれどころではないのです。私はどうしても彼に話さなければならないことがある」
「それはあとになさってください。聞けば、ダスティンはこのノルトハイム城で働いているのでしょう? 話をする機会くらい、いつでもありますよ」
義父はシルヴェスターの背中をグイグイと押して、客間に連れ込んだ。あの大人しいマリアンネの父とは思えないほどの強引さだ。
この分だと、話が終わるまでは解放してもらえなさそうである。仕方なしに、シルヴェスターはできるだけ早く用事を済まそうと決めた。
「それで、ご用件は?」
シルヴェスターはソワソワしながら尋ねる。義父は懐から封筒を取り出した。
「先日シルヴェスター殿からいただいたこの手紙についてです。これは一体、何の冗談ですか? 我が家が取り仕切っている鉄道事業から撤退するつもりとは……」
「冗談ではありません。私はノルトハイム家の経営方針を変更したのです。その結果、当面の間、新事業への参入はしないことになりました」
「マリアンネがお気に召しませんでしたか?」
義父が思ってもみなかったほうに話を振ったので、シルヴェスターは一瞬何を言われたのか分からなかった。
「確かにあの子は引っ込み思案で器量も悪く、華もない。シルヴェスター殿がご不満に思う気持ちも分かります」
義父はずいっと身を乗り出した。
「しかし、うちの長女は違いますよ。先日夫と別れて実家に帰ってきたのですが、これが大変な美人でしてね。溌剌としていて、性格も明るい。あの子なら、マリアンネよりもいい妻になれますよ」
義父は「それがお嫌でしたら、次女という手もございます」と続けた。
「あの子も姉に負けず劣らず美しい。人の気を引くのも上手です。今は結婚して家を出ていますが、相手はノルトハイム家とは比べものにならないほどの弱小貴族。シルヴェスター殿のご希望とあらば、すぐにでも離縁するように相手方に交渉を……」
「待ってください」
シルヴェスターは勢いよくまくしたてる義父をやっとの思いで制止させた。なぜ彼が突然自分の長女と次女の紹介を始めたのか、まるで見当もつかない。
「一体何が言いたいのですか? はっきりとおっしゃってください」
「つまりですな、マリアンネの代わりは二人もいるということです」
義父はあっさりと言ってのけた。
「シルヴェスター殿はお好きなほうと再婚できるのですよ。どちらを選んでも、マリアンネより、よほどよき妻となりましょう」
「再婚? マリアンネよりもいい妻?」
シルヴェスターはすっかり困惑してしまう。そんな義理の息子を見ている内に、義父はどうやら自分の言いたいことが伝わっていないと気づいたらしい。次に彼の口から出てきたのは、もっと直接的な言葉だった。
「シルヴェスター殿は、地味で目立たないマリアンネがお嫌なのでしょう? そして、そんな女を押しつけた私を恨んで、事業からの撤退を申し出たのではありませんか?」
「違います」
シルヴェスターは義父の思い込みに驚きつつも、すぐさま断固とした口調で否定した。
「先ほども言ったとおり、ノルトハイム家は経営方針を変えたのです。我が家が事業に参加しなければ不都合があるというのなら、申し訳ないことをしました。代わりに、あなたの仕事に興味を持ちそうな貴族に紹介状を書きましょう」
「シルヴェスター殿が直々に?」
義父の必死の形相が一転して、今度は今にも舌なめずりをしそうな顔になる。
「では、マリアンネのことは……」
「彼女は私の妻です。別れる気はありません」
「なんと情け深い!」
義父は目を輝かせた。
「確かに、あの子ではまともな再婚先も見つからないでしょう。あの容姿と性格ですからねえ。シルヴェスター殿は不出来な娘を哀れんでくださっているのですね」
言いたいことだけ言ってしまうと、義父は「紹介状の件、どうかお忘れなく」と念押しして退室していく。
シルヴェスターは大きく息を吐き出した。
(父親があれでは、マリアンネが自信を失うのも無理はないな)
シルヴェスターはマリアンネが気の毒になった。
(あとでマリアンネを慰めてやらなければ……)
シルヴェスターはマリアンネのことを本心から最高の女性だと思っていた。そのことをぜひともマリアンネ自身にも知っておいてもらいたい。
だが、その前にやらなければならないことがあった。シルヴェスターは客間を出て、ダスティンを探す。
(彼はマリアンネを特別視している。だが、彼女は私の妻だ。駆け落ちなどさせるわけにはいかない)
「にゃー!」
「に、にゃあ!」
城のあちこちを見て回っていたシルヴェスターは、廊下の真ん中で二つの黒い毛玉が絡み合っているのを発見した。
「ギド?」
初め、シルヴェスターは庭師の猫が二つに分裂でもしたのかと思って呆然となったが、彼の呼びかけに「にゃー」と応えたのは毛玉の内の片方だけだった。
「にゃ!」
ギドはもう一匹の黒猫のフワフワの顔面にパンチを食らわせる。よく見れば、その猫の体は完全な黒ではなく、口の周りだけが白い毛で覆われていた。
「うにゃあっ」
顔の真ん中に強烈な一撃を受けた猫は、悲鳴のような声を上げて去っていく。シルヴェスターは勝ち誇って「ふしゃああ!」と鳴き声を上げるギドに、「誰だ、あれは」と尋ねた。
「にゃあ」
「君の知り合いか?」
「にゃ!」
「そういえばこの前、君は大変なことをしでかしてくれたな。マリアンネがくれたマフラーをめちゃくちゃにしただろう。一度文句を言っておかなければと思っていたんだ」
「にゃあ……」
ギドは小さくなっていく黒猫を前足で指した。シルヴェスターは「何が言いたいんだ」と眉をひそめる。
「きちんと反省しないと、建物の中に出入り禁止にするからな」
「にゃー……」
「なんだ、不満そうな顔をして。本当にしようのない子だな。今回は特別に許すから、もう二度とこんなことはしないでくれ。分かったな?」
「にゃあ」
ギドはしゅんと尻尾を下げた。多分反省したんだろうと思い、シルヴェスターは頭を撫でてやる。
「さて、ダスティンはどこへ行ったのか……」
シルヴェスターは、今は猫のケンカになど気を取られている場合ではなかったと思い出した。
ダスティンの姿を求めて辺りをきょろきょろしていると、ギドが窓枠に飛び乗って「にゃー」と声を上げる。
「ギド、悪いが今は君に構っている暇はないんだ」
シルヴェスターはギドを窓枠から降ろそうとして、ハッとなる。庭にダスティンがいたのだ。
彼は一人ではなかった。一緒にいるのはマリアンネだ。見たところ、二人は揉めているようだった。
仲睦まじく過ごしているわけではなさそうだとはいえ、マリアンネがダスティンといるところを目撃してしまい、シルヴェスターは胸をざわめかせる。
居ても立ってもいられなくなり、二人のところへ駆けていった。





